© Karin Sonoyama / Sakoyan 2010
© Karin Sonoyama / Sakoyan 2010
第十三話 哀愁の旋律を崩壊させる。
人差し指で3フレットの1、2、3弦を、中指で4フレットの2弦を、薬指で5フレットの4弦を、小指で6フレットの5弦を押さえ、スリーフィンガーでゆっくりと奏でる。今までで、一番悲しげな音が出る。8小節分ほど繰り返したあと、次にテンポを上げて弾いてみる。なかなか良い感じ。
昨日の部活で、唯一解っていなかったコードが判明した。ギターコード集を眺めていた由美が、
「シーコさん、これって、イー・フラットって読むの?」
と、指差したコードがきっかけだった。
「うん、そう。正確には、メジャーが付くんだって。Eフラット・メジャー。清行兄さんが言ってた」
「このコード、もう弾いてみた?」
「ううん、まだ」
私が光子に首を振ると、
「『さようなら』のコード、これだったりして」
由美が冗談を言って笑った。で、せっかくだから、コード進行の空きをEフラット・メジャーで埋めて、試しに弾いてみようということになった。そしたら、見事に音が合った。
Gマイナー、F、Eフラット・メジャー、Gマイナー、今度は通して挑戦。
「タンタタタタタン、タンタタタタタン、タンタタタタタン、タンタタタタタン」
拍子を取りながら、同じテンポで軽快に弾いていく。このところメキメキと上達してきた。まだわずかに音がかすれるところがあるけれど、一週間前とは比べものにならないほどの進歩。光子は、同じコード進行をゆったりとしたストロークで弾くことになっているから、合わせて演奏したら、それなりに様になりそうだ。昨日は演奏無しで唄ってみせてくれた由美のボーカルも、とてもいい感じだったし、次の部活が楽しみ。と、わくわくしてたら、下から母の声が響いた。
「椎子、電話よー。由美ちゃんからー」
意思が届いたかのような絶妙なタイミング。近頃、由美はとても間がいい。
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「じゃあ、待ってるから」
電話を切りると、母が台所から顔を出した。
「何だったの?」
「由美と光子、今から遊びに来るって」
「あら、珍しいじゃない。由美ちゃんとみっちゃんが遊びに来るなんて」
「うん。…ねえ、お母さん、お茶菓子になるようなもの、何かある?」
「そうねえ…、ビスコは?」
「それ、れんげのおやつでしょうに。子どもじゃないんだから」
「おほほ、やっぱりそうよね。…あ、ホットケーキだったら用意できるわよ。今のうちに作って、冷やしておこうか」
「ほんと? じゃあ、お願い! その代わり、晩ご飯の後片付け、全部引き受けちゃうから」
「まったく。こんな時だけ調子いいんだから」
母は苦笑いしながら呟いた。
二人が前に遊びに来たのって、まだ二階の部屋を改築する前、私が幼稚園の時以来だ。由美と光子が、電話でおしゃべりをしているうちに、私のところへ、レコードを見せてもらいに行こう、ということになったらしい。しょっちゅう顔は会わせているのに、なんか、新鮮な感じがする。私は大急ぎで二階へ上がり、部屋を片付け始めた。
「わあ! 何枚あるの?」
「すごーい! 見ていい?」
カラーボックスの前にしゃがみ、由美と光子が声を上げた。
「五十枚くらい。もちろん、遠慮なく全部見てちょうだい」
「じゃあこれ、どんなアルバム? 見たこと無いけど…」
由美が『GARO2』を引き出した。
「ほら、『学生街の喫茶店』って、聞いたことあるでしょ」
すかさず、私が解説を入れる。
「うんうん、きーみとよっくぅー、って曲ね」
「そう、そのグループのセカンドアルバム。ガロっていう三人組みのグループなの。もちろん『学生街の喫茶店』も入っているわよ。A面はガロの曲で、B面はビートルズなんかのカバー曲が入ってるの」
「へー、そうなんだ!」
由美は感心しながら、ジャケットを裏返した。
「じゃあ、これは? 私、まだ聞いたこと無い!」
と、今度は光子が『今はまだ人生を語らず』を手に取った。私が買った数少ない一枚だ。
「たくろうのアルバムね。『人生を語らず』とか『シンシア』とか『襟裳岬』とか、良い曲が多いよ」
「えっ?『襟裳岬』って、レコード大賞の?」
「そう、その『襟裳岬』」
「なんで? なんで、たくろうが演歌唄ってるの?」
「だって、たくろうが作曲したんだもの」
「えーっ! そうなの! 知らなかった…」
光子は驚き、ジャケットの帯を見ながら、
「さすがフォークソング部部長のシーコさん、何でも知っているのね!」
と、よいしょした。あはは、たくろうが作曲したっていうのは有名なのに。それより、いつの間に私は部長になったの。…なんて、のんきに構えて苦笑いしたら、とんでもない事態が起きてしまった。
「これ、シーコさんのお気に入りって言ってたアルバムね!」
と、由美が風のファーストアルバムを取り出した時だった。同時に、レコードの間から薄いグリーンのノートが飛び出した。
「あ…」
急いで拾おうとしたけど遅かった。飛び出した拍子に、挟んでいた吉澤先輩の写真が、彼女たちの前にこぼれた。机の引き出しに仕舞ったと思っていた。一昨日、表紙越しにキスしようとしたところをれんげに目撃され、慌てて、レコードの間にノートを突っ込んだままにしていた。すっかり忘れていた。
由美と光子が顔を見合わせた。一瞬、時が止まったように感じた。すぐに我に返り、目にも留らぬ速さで、ノートと写真を拾い、背中に隠した。
「な、何でもないの!」
恥ずかしさで、顔がみるみる熱くなっていく。何でもないわけがない。きっと真っ赤な顔に、そう書いてある。
「シーコさん、やっぱり!」
由美の目が点になった。
「吉澤先輩のこと…」
光子は、自分の頬に手をあてた。
「……」
どんな言い訳も通じない。だけど、二人に隠さなければいけない理由も無い。深く息を吸い、両手を背中に回したまま、私は素直にうなずいた。
「知ってたの?」
照れながら、二人に聞いた。顔の火照りが、すーっと退いていく。正直に白状したら、だいぶ気が楽になった。
「だって、ねえ光子。ふふふ」
「シーコさんの指定席、イニシャル付きなんだもの。必ずそれ、確認してから座るでしょ」
二人の顔がニヤけた。ば、ばれていたのか。さっきとは、違う意味で恥ずかしい。
「SYっていったら、吉澤真吾先輩しかいないもん」
自信たっぷりに、光子は腕を組んだ。
「先輩のこと、知ってるの?」
「だって、有名だもん。クラスに、ファンクラブを作ろうっていう子もいたくらいだし」
由美が、さらにニヤけて言った。
「そうそう。三年女子の取り巻きが怖くって、結局、実現できなかったんだよね」
光子は、わざと大げさにため息をついた。人気があるのは、三年生だけかと思っていた。吉澤先輩、一年にも人気があったんだな。知らなかった。
「ねえ、シーコさん…」
由美が、なぜか声を潜めた。
「え?」
「もう、したの?」
「えっ!!! な、なな、何を?」
心臓が飛び出しそうになった。由美、あんたはいったい、何を言い出すの! と、あたふたしていたら、
「こ・く・は・く」
わざと意地悪な顔つきで言った。キス以上のことを言っているのかと勘違いして、妙な汗が額ににじんだ。
「し、してないけど…、でも…」
「でも?」
「された」
「…されたって、吉澤先輩のほうから、告白されたのっ?」
光子が思わず声を上げた。
「うん…」
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結局、二人に急かされ、なにもかも全て白状する羽目になった。
それは、夏休みが繰り返すようになる、前日の朝のことだった。「今日の午後に、講堂の裏まで来てくれませんか」吉澤先輩からの突然の電話だった。信じられなかった。それまでは、一方的な恋だと思っていた。
一年の二学期、初めて先輩と会話したあの日から、私は吉澤先輩に恋をした。友達の美香子の、西川剛史目当ての練習見物に付き合うふりをして、ほとんど毎日のように、先輩の姿を追っていた。美香子の恋を邪魔しちゃいそうで、胸の内は誰にも話さなかった。やがて美香子は剛史に告白し、付き合うようになった。それまで控えめにしていた美香子は、堂々と剛史を応援するようになった。そんな美香子が羨ましかった。できるなら、私も告白したいと思った。だけど、私の恋には変化がなかった。天秤が次第に傾くように、想いばかりが募っていった。告白なんてできやしない。相手は取り巻きがいる人気者。たとえ告白しても、年下の私が相手にされるわけがない。小学生の時、一度だけ、差出人不明のラブレターらしきものをもらったことがあるものの、私は決して男子にモテるような『可愛い女子』ではない。
二年になっても状況は同じだった。やがて、片想いでも先輩の練習する姿を見られるだけで、幸いなのかもしれない。そう思うようになった。石段に座って、静かに先輩の姿を追う。それだけで幸せな気分になれるようになった。この時間がずっと続いてほしいと思っていた。だけど、長くは続かなかった。二年の一学期の後半に差し掛かった頃、岩柿中学校野球部が、中体連の予選二回戦であっけなく負けてしまったのを最後に、先輩は放課後のグラウンドから姿を消した。その気になれば、姿はいくらでも見られるのに、三年A組の教室をのぞく勇気は、私にはなかった。先輩の欠けた野球部の練習を見物するたびに、私は消沈し、ため息ばかりつくようになった。
さすがに美香子が気がついた。「なんでもっと早く言ってくれないのよ!」と、美香子に怒られた。美香子は、思いきって告白しちゃえと言った。だけど、私は絶対ダメだと首を縦に振らなかった。自信が無かった。失恋するくらいなら、そのままのほうが良かった。そんな私を見兼ね、美香子が田霜先生に掛け合ってくれた。卒業アルバム用だからって嘘ついて、先輩の写真を撮ってもらった。夏休みに入る直前、野球部員として、先輩が後輩たちに最後の挨拶をした日だった。
夏休みに入ってから、剛史率いる、新生野球部の練習がスタートした。だけど、私たちの見学は無くなった。もう私には、見学する理由も無かったし、隣村の美香子は、私に気遣って、夏休みくらいは家でゆっくりすると言った。
その後、切なさはあったものの、田霜先生にもらった写真のおかげで、だいぶ癒された。部屋にいる時、遠く離れたグラウンドから、バットでボールを叩く音が響くことがあった。そんな時は、先輩の写真を見ながら、練習見物の時を思い出していた。収まる写真立てが無かったから、好きなレコードに挟んで、音楽を聞きながら、思い出に浸ることもあった。そんな日々を過ごし、夏休みも終わろうとする頃、美香子から連絡があった。「剛史から聞いたんだけど、明日、野球部の練習試合があるんだって。三年生や他の部活の助っ人たちが加わって、試合するらしいの。もちろん、吉澤先輩も参加するって!」
そんなわけで、美香子と見物に行くことになった。当日は、久しぶりに先輩の姿が見られる嬉しさで、起きてから、ずっとドキドキしていた。そしたら、先輩のほうから電話がかかってきた。
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「きゃー!」
由美が歓声を上げ、
「どんな気持ちだった? 先輩から呼び出しをもらった時」
光子が嬉しそうに聞いた。
「そりゃあ嬉しかったわよ。でも…、正直に言えば、その時はまだ、期待よりも不安のほうが大きかったの。いったい、何を言われるんだろうって」
「やっぱりそうよねえ…。で、それから? それから、どうなったの?」
光子が急かした。
「試合が終わってから、講堂の裏に行ったの。そしたら、先輩、これを持って、待ってた」
私は、由美と光子の真ん中にノートを置いた。二人は顔を寄せ、表紙に見入った。
「それで?」
今度は由美が急かした。
「私が練習を見ていたのを、ずっと気になっていたって。だから、良かったら、交換ノート、お願いしますって、このノートを差し出しながら言われたの」
光子は拳に力を入れてうなずき、
「で、もちろん、オーケーしたんでしょ?」
と、由美は期待に満ち溢れた顔で聞いた。でも、
「…ううん」
私の反応に、
「えーっ!?」
二人は悲鳴に近い声を上げてしまった。
「私も、どうしてすぐに『はい』って言えなかったのか、解らないの。案山子みたいに突っ立ったまま、何も言えなくって。突然のことで、たぶん動揺していたんだと思う」
「それで?」
「どうなったの?」
「すぐに返事しなくてもいいから、二学期が始まったら、このノートに返事を書いて渡して下さい、って言って、行っちゃった…」
肩を落としながら、私はノートの表紙をめくり、1ページ目の『OK』の文字を見せた。筆跡が私のものだと、由美と光子はすぐに気がついた。二人は言葉に詰まり、私の代わりにため息をこぼした。Eフラット・メジャーのメロディが、突然、頭の中で流れ出した。次第に『OK』が揺れて見えてくる。何かしゃべろうとしても、心に、切なさがじわじわとしみ出してくるようで、適当な言葉が見つからない。哀愁が漂うような沈黙が続き、数十秒が何分にも感じる。やがて、
「返事を渡す前に、夏休みが繰り返すことになったわけね」
と、由美が哀れみ、
「せっかく、両想いなのに…」
と、光子が残念がった。「私は大丈夫。心配ないよ」、笑顔で口に出そうとした。だけど、どうしても口が開かない。言葉をこぼすと、涙までこぼれそうな気がした。そんな私を察して、二人はいたわるように、そっと私の肩に触れた。すると、絶妙な間の悪さで母が登場し、
「特製冷やしホットケーキ、おまたせー! …あれ? どうしたの? みんな、お葬式みたいな顔して」
と、Cコード調の乗りで、Eフラット・メジャー調の雰囲気を、一気に崩壊させた。
1975年8月8日 13:28