© Karin Sonoyama / Sakoyan 2010
© Karin Sonoyama / Sakoyan 2010
第九話 仰天させることに、長けている。その一
遠くで、富美蔵おじさんが飼っている、ねぼすけのニワトリが鳴いた。公民館の台所の窓から朝陽が差し込み、忙しく動き回っている私たちの割烹着に、時折まぶしく反射している。
「分量はこれくらいで良いじゃろ」
キクばあちゃんは、テーブルの真ん中に集めた薄力粉の山に、ふくらし粉をふりかけると、慣れた手つきでかき混ぜ始めた。この作業だけはキクばあちゃんの職人技に頼っている。毎回、薄力粉の量は微妙に違う。しかしキクばあちゃんは、ふくらし粉の割り合いを、目分量でいとも簡単に決めてしまう。これが絶妙なのだ。ふくらし粉はようするにベーキングパウダーのことで、ふくれもち作りには、これが多すぎても少なすぎてもいけない。ちょうど良い割り合いで混ぜなければ、ふかふかのふくれもちに仕上がらない。何度もキクばあちゃんの作業を見ているのに、まだ誰も習得できないでいる。長年の勘というのは、そう簡単には真似できない。
「それじゃあぼつぼつ始めようかな」
粉をかき混ぜたあと、キクばあちゃんは私たちにバトンを渡した。ここからが我らの出番。粉の山に適当な量の水を注ぎ、素手で素早くこね始める。程よい感触になるまで、少しずつ水を足しながらこねていく。
「みんなしっかりこねて。加減はな…」
キクばあちゃんが生地のこね具合を指示する前に、
「耳たぶよりちょっと固め!」
と、私たちは声を揃えて笑った。
最初の頃は、なかなかコツをつかめなくて大変だった耳たぶの感触。今では全員、分かるようになった。生地作りは、そろそろ免許皆伝になってもいいくらいの腕前になっている。
バレーボールよりも若干小さめの生地玉をそれぞれが一つずつ作って、生地作りの作業は完了。終わったのは、予定通り九時半。続けてふくれもちの卵作り。生地玉を小さくちぎっていく。一人約三十個。次に、その一つを手のひらでキュッと押して平たくし、克子姉さんたちが昨日作っておいたアンコを詰め、饅頭型に形を整える。これで蒸す前のふくれもちの卵が完成する。ちょうど、ニワトリの卵ほどの大きさだから、私たちはふくれもちの卵と呼んでいる。続いて、三段の蒸籠に敷き詰めたふくれもちの葉っぱの上に、ふくれもちの卵を次々に並べていく。二つの蒸籠に並べ終えたら、ようやく準備が整う。後はコンロで四十分ほど蒸して出来上がり。蒸籠二つで午前中に半分を蒸し、残りは、お昼休みをはさんで午後に蒸す。
お昼は試食を兼ねて、出来たばかりのふくれもちを食べる。これは私たちの特権。素朴な味のふくれもちではあるけれど、出来立てはとっても美味しい。
全ての窓を開け、扇風機は最大の風力で、台所に籠った熱気を外に追い出す。汗をだいぶかいたせいか、扇風機の裏側にいても、ひんやりとした空気を感じて気持ちがいい。
「はい、お待たせ」
克子姉さんが大皿をテーブルに置いた。蒸したばかりのふくれもちが盛ってある。それぞれ一個ずつ取って席に着く。ふかふかのふくれもち一個、お昼はこれでじゅうぶん。麦茶のポットを順番に回し、氷の入ったコップに注いでいく。出来立てのふくれもちには、冷えた麦茶が良く合う。
「さあ、食べようかね」
「いただきまーす!」
底に張り付いたふくれもちの葉っぱを剥がし、みんなで食べようとした時、
「…みませーん」
玄関で誰かが声をかけた。ちょっと聞き取りにくい、か細い声。だけど、透さんだとすぐに分かった。みんながなぜか私を見た。
「あ、はーい」
必然的に声が出た。私を先頭に、ゾロゾロと玄関へ顔を出す。
「あ…」
透さんを初めて見る由美と光子が、思わず声を漏らす。あの時の格好だ。キクばあちゃんが丹念に洗ってあげた、半袖とTシャツ、ジーパン、野球帽、初日にバスから降りてきた時と、同じ格好をしている。たぶん静香おばさんが、アイロンをかけてくれたのだろう。ヨレヨレだったところは、いくらかパリッとしているが、着こなし方はやっぱりだらしない。ただ、あの強烈な臭いが漂っていないのは、幸いだった。特に臭いに敏感な由美が、あの臭いを嗅いでいたら、大騒ぎしていたに違いない。
まずは私が、お礼とお詫びを兼ね、頭を下げた。
「先日は妹たちがお世話になりました。なんか、ずいぶん連れ回されちゃったようですね。ごめんなさい」
「いえ…」
うつむく透さんを見て、明代姉さんが私の肘をつっついた。
「どうしたの?」
「この前、れんげたちが無理矢理引っ張り出しちゃったの。村案内だって」
「れんげたちって、祐輔と寛太?」
苦笑いしながらうなずくと、
「じゃあ大変だったでしょう。あの三人相手じゃ」
と、明代姉さんが同情し、由美と光子がクスッと笑った。
れんげによると、午前中だけで、かなりの距離を歩き回ったらしい。祐輔の家からスタートし、まずは学校周辺、それから奥野川を辿って奥野森、そこから山道を辿って富美蔵おじさんの畑を通り、さらに、岩柿村を取り囲んでいる山々で、一つだけ飛び出して、タイムトラベル域の内側に入り込んでいる一番低い山、中山にも登り、お弁当はそこで食べたらしい。そのあと祐輔が、村案内はそっちのけにして、中山で秘密基地を作ろうと言い出し、結局透さんは、夕方まで悪ガキたちに付き合わされた。
「本当にごめんない」
れんげが悪ガキ三人組として行動した場合、大概は頭を下げなければならない事態になってしまう。姉の悲しい定めだ。
「そんな…、むしろ僕がお礼を言いたいくらいなのに。あの子たちのおかげで、久しぶりに楽しかったですから」
私に気を遣ってか、透さんはそう言ってはにかんだ。しかしその言葉には嫌みがまったく感じられない。きっと我慢して付き合ってたんだろうに。なんて良い人なんだろう。なんて考えていたら、克子姉さんが私の肩を叩いた。
「椎子、そんな事より、透さんは別の用があるんじゃないの? ねえ、透さん」
「はい…」
「ほらね」
と克子姉さんが胸を張る。
「実は、ここで手伝ってくれって、村長さんに言われたんですけど」
頭を書きながら、透さんは言った。
「えーっ、モアイ2号ったら、ゲストに手伝わせるなんて、とんでもないわねっ」
明代姉さんが呆れ、私たちも、その通りだとうなずく。透さんは、モアイ2号が村長代理のことだとすぐに理解したようで、慌てて手を横に振った。
「いえ、村長さんは、何もしなくていいって言ってくれたんですけど、僕がどうしてもってお願いしたんです。そしたら、公民館で手伝ってくれって…」
そんな透さんを、キクばあちゃんがしきりに感心し、
「やっぱり、透さんは立派だねえ。…ご飯、まだよね。よかったら、ふくれもち、食べてって」
と、彼の腕を掴んだ。瓜を食べてってと、お店の奥へ引きずり込んだあの時のように、掴んだ腕を強引に引っ張った。
結局、透さんは、私たちといっしょにお昼を取ることになった。出来映えが一番良いふくれもちをキクばあちゃんが選定し、
「熱いから気をつけて」
と、透さんに差し出した。明代姉さんから、ふくれもちの葉っぱの剥がし方を教えてもらい、透さんは、照れながら一口食べると、
「初めて食べたのに、とっても懐かしい味がしますね。美味しい!」
と、驚いた顔で言ってくれた。
「でしょう!」
明代姉さんが胸を張り、私たちは感激して手を叩いた。
ふくれもちを食べながら、私とキクばあちゃんを除く女子四人が、簡単な自己紹介をすると、
「どうも、小堀透です」
透さんはうつむき加減に頭を掻きながら、お返しに名乗った。やっぱり、頭を下げたり掻いたりするのは、癖なんだと思いながら、私はみんなに、透さんが東京で一人暮らしをしているってことや、デザインを勉強しながら働いているってことを、わざわざ付け足して上げた。なのに、みんなの興味は、すでに他の一点に集中していた。
「透さん、今、ケータイ持っています?」
明代姉さんが、待ちきれない様子で尋ねた。
「え…? は、はい。持っていますけど」
「よかったら、見せてもらえませんか」
「あ、はい。…どうぞ」
ジーパンのポケットからケータイを取り出し、透さんは静かにテーブルの上に置いた。ケータイ未経験の女子四人は、もう、蜂の巣を突っついたような大騒ぎ。透さんが使い方を一つ一つ説明するごとに、彼女たちが一喜一憂する様子を見て、キクばあちゃんは自慢げに何度もうなずき、私は、ちょっとした優越感に浸った。この前の祐輔の気持ちがよく解った。しかし、そんな気分もつかの間、
「好きな時に、どこからでも電話できるって、いいなあ」
うらやましがった由美のあと、透さんが続けた次の一言が、私をも大騒ぎの仲間に加えてしまった。
「でも、僕の場合、電話として使うことはあまり無くって、ほとんどはメールだったり、音楽聞いたり、ゲームしたりするほうが多いんです」
「…?」
一瞬、何を言っているのか分からなかった。透さんは私にもまだ説明していなかったことに気づくと、その未知の機能を、丁寧に詳しく説明してくれた。だから私は、「ひゃーっ!」
みんなといっしょに、まるで悲鳴のような声を上げて驚いた。電話器だってことさえ驚異なのに、このケータイときたら、メールという機能は、文通のようにメッセージをやりとりするのが挨拶代わりとして使われていたり、イヤホンを繋げは、好きな音楽を何曲でも聞けるっていうし、さらに、テレビ番組や映画さえも見ることが出来るという。しかも、トランプとかピンボールとかパズルとか、様々なゲームを楽しむことが出来る上に、映像カメラの機能まで付いて、それで撮った写真と映像は、アルバムのようにストックできるっていうから、私たちは驚異を通り越して、狐につままれたような感覚に陥ってしまった。
「つまりこれ一つで、電話にテレビにカメラ、それに、ポストの役目も果たして、おまけに、ゲーム盤やら写真やらLPが、たくさん入っているってことなのね」
「信じられない。こんな小さなものに、そんな凄い機能があるなんて…」
明代姉さんと克子姉さんが、寄り目になるほどケータイに顔を近づけ、ため息をついた。
「正確には、音楽や写真などは、データとして保存されてるんですけど」
「データ?」
みんな、首を傾げた。
「あ、データっていうのは、…えーと」
透さん、どんなふうに説明していいものか分からないようだ。
「じゃあ、例えば音楽の場合は、もの凄く小さなカセットテープが、中に入っているって思えば良いんですね」
フォローのつもりで私なりに解釈すると、
「なるほどね」
由美と光子が納得した。しかし、透さんは少し困った様子で、
「うーん…まあ、そんなところ…です」
妥協するようにうなずいた。
私は、八十年代の後半からやって来た、あるゲストが言っていたことを思い出した。レコード店の売り場には、レコードの代わりにCDというものが置かれていると言っていた。シングルレコードよりも小さい円盤に、LPレコードのA面とB面を合わせた曲数が収録されているって聞いて、とても驚いたし、何より、CDのプレイヤーが、レコード針の代わりに、レーザー光線を使って音が出る仕組みになっていると聞いた時には、凄いことになっているんだなと、十数年後の未来に感心したものだ。だけど今回は、その驚きを遥かに超えてしまった。野暮ったくて、しなびた格好をした透さんが、二〇〇九年からやってきたって聞いた時、正直言って、二十一世紀って、あんまり進化していないのかも、と思った。とんでもない思い違い。三十四年後は、少なくとも電話に関しては、私たちの想像を絶する進化を遂げている。
「音楽、どうやって録音するんですか?」
ずっと顔を近づけたままだった明代姉さんが、ようやく顔を上げ、質問した。そういえば、どうやってケータイに録音するのだろう。私たちがレコードからカセットテープに録音する場合、結構な手間がかかってしまう。ケータイの場合も同じなのだろうか。
「録音するわけじゃなくて、ネットからダウンロードするんです」
透さんは、またしても聞き慣れない単語を言い放った。ネット? ダウンロード? 想像力が貧困なせいなのか、私は、坂道を跨いでピンと張った、テニスのネットが頭に浮かんでしまった。無数の軟式の野球ボールが、そのネットを飛び越え、次々と坂道を転がって行った。
1975年8月1日 7:23