© Karin Sonoyama / Sakoyan 2010
© Karin Sonoyama / Sakoyan 2010
第二話 洗面器、回収。その一
「帰りに、ソーセージ二本、買ってきて」
玄関でスニーカーを履きかけていた私に、昨日のお化粧とは対照的なスッピンの母が、五百円札を差し出して言った。
「もう、人使い荒いんだから」
「その代わり、好きに使っていいわよ。おつり」
母はニタリと笑った。うっ、すっかり見透かされている。その言葉には弱い私。態度がころっと変わってしまう。
「ほんと? じゃあポテトチップスとえびせん、買っちゃうね」
「はいはい。じゃあ洗面器とソーセージ、頼んだわよ」
結局は、母の思い通りに使われてしまう。ポテトチップスは私のお気に入り。かっぱえびせんは詩を書いている時に食べると、不思議と良い言葉が浮かんでくる。この二つを買えるんだから、まあ仕方がない。
白いTシャツの照り返しが、眩しい。だけど、綿菓子風味の雲は、昨日よりやや多く、天気の心地良さは継続している。歩きながら、手を組んで伸びをした。そよ風が暑さを和らいでくれている。
小道から道路へ出た時、
「ちょっと待って!」
妹が追いかけて来て、百円玉を自慢げに摘んで見せた。
「えへへー、れんげもお小遣いもらっちゃったから、つき合うよ」
「いいけど、買い物は後だからね。先に公民館に行くんだから」
これから洗面器とタオルを回収に行く。昨日、母がそのまま公民館に置いてきてしまった。
「分ってるって、シーコ姉ちゃん」
れんげも私の名前を「シーコ」と呼ぶ。別に私もそう呼ばれることに抵抗は感じていない。むしろ「しいこ」よりは「シーコ」と呼ばれるほうがなんとなくいい。といっても、本名で呼ぶのは両親と一部の大人たちだけで、大半は「シーコ」と呼んでくれている。まあ、「しいこ」も「シーコ」も大して変わらないから、ほとんど気にしてはいない。あえて不満を言えば、小学校の時から担任の先生が替わるたびに、決まって「雅子」と読み間違いされてしまうことぐらいか。だから、私の名前が少し珍しいことは前から自覚している。れんげは本名が平仮名だから読み間違えられることはないが、やっぱり珍しい名前だから、誰からもすぐに名前を覚えられる。そんな私たち姉妹の名前は父が付けた。私の時は、安産祈願に行った場所で、椎の大木のまわりにたくさんのどんぐりが落ちているのを見て命名し、れんげの時は、生まれる直前に村中の田んぼが蓮花で覆われたから決めたらしい。どちらも、父は何やらお告げみたいなものを感じたからと言っているが、本当かどうかは怪しい。
れんげは私の横に並ぶと、重ねた手の中で百円玉を転がせた。落ち着きの無さが、その手の動きからこぼれている。
「そういえばあんた、祐輔の家に行くって言ってなかったっけ?」
「それがさあ、ゲストのお兄ちゃん、あんまり外に出たくないらしいんだって。さっき祐輔から電話かかってきた」
百円玉を転がすのを止め、れんげはつまらなそうに言った。
「ふーん」
顔色の悪い彼が、頭を下げている様子が目に浮かんだ。ゴロベエ先生は大丈夫だって言ってたけど、本当はどこか具合が悪いのかもしれない。
「せっかく、いろいろ案内しようと思ってたのにぃ」
「あんた、二十一世紀のゲストがやって来たって聞いて、張り切ってたもんねえ。明日は祐輔たちと、ゲストのお兄ちゃんに村を案内するんだって」
「もうみんな会ってるんだもん。早めに会っとかないと、れんげ、出遅れちゃうじゃない」
「あはは、何言ってるの」
れんげは時々、小学生とは思えないようなおマセなことを言う。本来の時間なら、今の私とほぼ同じくらいの年頃。少しは大人びたことを言ってもおかしくはない。だけど、れんげの場合、夏休みが繰り返す前からこんなふうだ。
「だってさあ、ゲストのお兄ちゃんに会ってないの、うちの家族でれんげだけなんだもん。みんなずるいよ。お母さんだって、一声掛けてくれれば良かったのにさ」
「昨日、ちゃんと説明したでしょ。ゲストに会うために公民館に集まったわけじゃないって。だいいち、みんなが大騒ぎしてる時に、二度寝してたあんたが悪いんでしょうに」
私がわざと呆れてみせると、
「だって、ラジオ体操の日は、二度寝しないと眠いもん」
と、れんげは言い訳しながら顔を背けた。
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昨日、彼が目覚めたのは、みんなが解散して四十分ほど経ってからだった。起きてしばらく、公民館に居残った私たち出迎え組みの顔を、ぼーっと眺めていた。ほどなくして、彼のお腹がキュルルと悲鳴を上げ、静香おばさんが慌てておにぎりを差し出した。大急ぎでこしらえて持って来てくれたおにぎり五個、彼はそれをむさぼるように食べた。
「大丈夫かい? ゆっくり食べて」
キクばあちゃんが、湯のみに注いだ冷えた麦茶を渡すと、彼はコクリとうなずいたものの、その後溜め息をついてうなだれてしまった。状況を理解しないまま気絶し、目が覚めてもやっぱり知らない場所にいたのだから、きっと悪夢が続いているような心境だったのだろう。やがて静かに顔を上げ、
「すみません」
と、か細い声で謝った。
食事の後は高井和先生に促され、お風呂に入ってもらった。五右衛門風呂の踏み板の使い方がわからず、かなり戸惑ったようだけど、およそ一時間かけて、たまりにたまった垢を洗い落とし、すっきりと小ぎれいになって上がってきた。おかげで鼻にツンとくる臭いはすっかり取れていた。
静香おばさんが気を利かせて持って来た、少し大きめの白い半袖シャツと黒いズボンに着替えたおかげで、かなり若返って見えた。けれど、顔色の悪さはやっぱり同じだった。その後、公民館から出ようとしなかった彼をみんなで説得し、静香おばさんと祐輔の家に連れて行った。移動中、彼はずっとうつむいたまま歩いた。なぜか、歩き方が少し、ぎこちなかった。ゴロベエ先生が言った通り、よほど気の弱い人なのか、何を聞いても、
「すみません…すみません…」
と、謝り続けるばかりだった。
「君は何も悪くないよ。気分が良くなるまで、遠慮せずに、ゆっくり休むといい」
高井和先生がなだめると、
「すみません…」
やっぱりか細い声で謝った。
結局この日、彼の名前も、年齢も教えてはもらえず、汚い恰好の理由も一切分らなかった。こういった場合、私たちはしつこく問わないことにしている。不安を煽りかねないからだ。ゲストの口数が少ないのは、彼に限ったことではない。さすがに気絶した人は居なかったけれど、今まで訪れたゲストの半分くらいは、到着して二日は、ほとんど会話を交わさずに過ごしてる。中には三日間もお世話係の家に籠り、その間、ずっと無言だったゲストもいたほどだ。とにかく、彼について分ったことは、二〇〇九年からやって来たってことだけだった。
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キクちゃん商店の前を通りかかった時、ひと声かけようと、私はお店の中をのぞいてみた。
「あれ? いないのかな…」
キクばあちゃんの姿が見えない。れんげが裏庭にまわってみたけれど、
「やっぱり、居ないよ」
首をかしげながら戻って来た。散歩にでも出かけているのかな? ばあちゃんは時々、裏山のもちこし川上流に、散歩がてら、山菜やふくれもちの葉っぱを取りに出かける。
「お買い物、留守番ノートだね」
と、れんげはガラス戸に顔をくっ付けた。
「そうだね」
キクちゃん商店では、ばあちゃんが居ない時にはお店番がわりに柱に掛けてある留守番ノートで買い物をすることになっている。ノートの下に置いてある小さな網かごにお金を入れ、その金額と買った品物の名前、それから自分の名前を留守番ノートに書き込む。おつりがある場合は、後日、お店に行った時に貰うことになっている。もちろん、こんな時にズルをしようなんて人はこの村には一人も居ない。時間が繰り返していること以外は、とくに特徴の無い平凡な村だけど、唯一これだけは他所に誇れるところだ。悪ガキたちだって、きちんと代金を払ってノートに記入していく。
「シーコ姉ちゃんは何を買うの?」
ガラス戸の前に置いてあるアイス冷蔵庫の中をのぞき、れんげが言った。
「ポテトチップスとかっぱえびせん」
「あ、いいなあ。れんげは何にしようかな…」
なんて言ってるけど、れんげの視線は冷蔵庫の中から外れない。
「いつものバナナ味のアイスでしょ」
「あれ、分った?」
「そりゃあ分るわよ。冷蔵庫の中、食べたそうにのぞいてるんだもん」
「えへへ、バレたか」
「でも、買うのは公民館に行ってからだからね」
「ほーい!」
れんげは、食べ物に関しては大変分りやすい。
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「あれ? 開いてるよ」
れんげが公民館の玄関を指差した。近づくと、奥で人の気配がする。
「おじゃましまーす…」
遠慮がちに中へ入ると、縁側の庭で、キクばあちゃんが布団を取りこんでいた。
「なあんだ、キクばあちゃん、ここに居たんだ!」
「あれまあ、シーちゃんにれんげちゃん、二人揃ってどうしたのー」
キクばあちゃんは、私の声に驚いた様子で応えた。すると、
「洗面器とタオル、取りに来たの!」
れんげが、すかさず手を振った。
「ああ、そういえば、郁子さんが持って来てくれたんだったねえ」
郁子は私の母。
「昨日はバタバタしてたから、誰が持って来てくれたか、分らなくなってたんだよ。ほら、そこに置いといたよ」
広間の隅に、母好みのオレンジ色の洗面器と、彼が身に着けていた帽子とシャツとズボンが、きれいに洗ってたたんである。しかも、絞りっぱなしにしておいたはずの我が家のえんじ色のタオルまで、きちんとたたんでくれている。
「あ、タオルも洗ってくたの!?」
「ついでよ。ついで」
キクばあちゃんは、当たり前のように言った。
「ありがとう!」
前から分ってはいるけれど、ああ、キクばあちゃんって、なんていい人なの。人使いの荒い郁子とは大違い!
「それよりシーちゃん、昨日はご苦労さんだったねえ」
「どういたしまして。キクばあちゃんこそお疲れさまでした」
私はスカートの裾を摘んで、西洋式のポーズをつけた。
「はっはっはっ、なにしろ大騒ぎだったからねえ」
「ほんと! あの人が気絶した時、私、一瞬頭の中が真っ白になったもの。キクばあちゃんがいなかったら、きっと、私のほうがパニックになってた」
「いいなあ。れんげもその大騒ぎ、したかったなあ」
羨ましそうに、れんげが口を挟んだ。
「ちょっと、お祭りやってたわけじゃないんだから。そもそも、ゲストが気絶したの、あんたの発明が原因なんだからね」
「発明って?」
「蚊取り線香!」
「蚊取り線香…?」
あ、時限爆弾と言うつもりが、うっかり言い間違えてしまった。
「もう、いいの!」
いちいち説明するのは面倒だから、この話は、無かったことにしてあげよう…って言っても、やっぱり納得いかないか。
「シーコ姉ちゃんの意地悪! れんげ、何もしてなんもん!」
と、れんげが口をとがらせると、
「はっはっはっはっはっ」
キクばあちゃんは、背筋を伸ばしながら笑った。
「ねえ、キクばあちゃん。布団、持って帰るの?」
「あい」
キクばあちゃんは可愛げにうなずいた。「あい」は「はい」の昔の言葉。村ではキクばあちゃんしか使わない。時代遅れの言葉なのに、キクばあちゃんの「あい」は、不思議な魅力がある。なぜか可愛く聞こえてしまう。
「今朝は早くから干してたからねえ。ぼちぼち片付けようと思って」
「そう、ちょうどよかった。布団運ぶの手伝うよ」
「あれ、いいのかい!?」
「後で買い物もあるし、ついでだから。ね、れんげ」
「うん、バナナアイス!」
れんげは、百円玉をまた摘んで見せた。
「はっはっはっ、じゃあ、お願いしようかねえ」
留守番ノートよりは、キクばあちゃんが居たほうが、買い物は手っ取り早い。
キクばあちゃんは掛け布団、私とれんげは敷き布団を二人で持って、その上にタオルと洗面器と彼の服を乗せて運ぼうということになった。どうやら布団は災難に遭うことはなかったようだ。臭いは付いていない。気持ちよくふかふかに仕上がっている。彼の服だって、元からボロボロではあるけれど、あんなに強烈な臭いを放っていたのに。ばあちゃん、よぽど念入りに洗ってあげたんだろう。その蘇った服を持とうとしたとき、側に小さな機械が置かれているのに気がついた。昨日、彼が気絶する前に慌てていじっていた、コンパクトミラーに似た機械だ。
「キクばあちゃん、これ!」
「ああ、それ、お兄さんに渡すの、すっかり忘れててねえ」
そういえば、彼がバス停で気絶した時、キクばあちゃんが拾って預かってたんだっけ。
「何?」
れんげが興味深そうに覗き込んだ。
「よく分らないけど…」
私はふと、彼が慌てて耳に付けたり、空にかざしてみたりしていたことを思い出し、
「たぶん…二十一世紀のラジオ…なのかも」
と、人差し指をおでこにくっ付け、名探偵ばりに推理した。
1975年7月22日 10:28