第十二話 れんげを生け贄にした罰があたった。
第十二話 れんげを生け贄にした罰があたった。
薄霧に包まれた銀色の草原で、私はひとり、佇んでいる。ふと、小指に赤い糸が結ばれているのに気がついた。糸が続く向こうから、先輩の声が聞こえてくる。胸が高鳴り、私は赤い糸を辿って霧の奥に進んだ。近づくはずの先輩の声が、なぜか、どんなに進んでも、いっこうに近づかない。霧は次第に濃くなり、渦を作って体にまとわりつく。行く手を塞ぐ。押しつぶされそうな不安を感じ、たまらず、先輩の名前を大声で叫んだ。突然、れんげの笑い声が響きわたり、霧はたちまち晴れた。目の前で、れんげと父と母、おまけに透さんまでもが、赤い糸で出来た蜘蛛の巣に引っかかって、笑っていた。やがて、透さんはコンパクトミラーを差し出し、覗いてみるように言った。私は不吉な予感がして、覗くのをためらった。れんげが「弱虫」と蔑み、みんなは覗けと囃し立てた。しかたなく、コンパクトミラーを受け取ると、恐る恐る覗いた。「わっ!」腰が抜けるほど驚いた。鏡に映っていたのは、シワシワの、年老いた私の顔だった。
飛び起きた。寝汗をぐっしょりかいている。たぶん、相当うなされたんだろう。おかげで、目覚ましのベルが鳴る前に目覚めてしまった。夢で良かったと深く息を吐く。とたんに、疲労感がどっと押し寄せた。
「シーコ姉ちゃん、大丈夫?」
寝ぼけまなこで降りてきた私に、れんげが自分のおでこを指で突っつきながら、
「昨日は、大騒ぎだったもんねぇ。へっへっへ」
と、嫌味ったらしく笑った。
「ば、ばーか。ちょっと驚いただけでしょ。それより、あんた、ずいぶん早いじゃないの」
いつもだったら時間ギリギリまで寝ているのに、しかも、昨夜は遅くまで起きていたれんげが、朝ごはんをとっくに済ませ、台所のテーブルで一息ついている。
「まあね。さすがにお父さんの早起きには、かなわないけどさ」
反り返るような態度で椅子に座る様子が、いかにも鼻につく。
「なーに言ってんの。で、私のことはほったらかしにして逃げてった、そのお父さんは?」
今度は私が嫌味ったらしく言った。いつもなら、この時間はまだ家にいるはずの、父の姿が見えない。
「早めに仕事だって」
「やっぱり逃げたか。まったく。…お母さんは?」
「庭」
タイミングよく、外でパンパンと洗濯物のシワをのばす音がした。
「ねえねえ、それよりシーコ姉ちゃん!」
「あ、テープ?」
れんげは大きく二回うなずいた。
「ちゃんと録音しといたわよ」
「あのねのね、やってた?」
「分かんない。最初の十分くらいは聞いてたけど、途中で寝ちゃったから。後で聞いてみて」
「今ちょうだい!」
「今って、あんた、これからラジオ体操でしょ」
「いいから、早く!」
急かされ、私は渋々と二階に上がった。ラジカセからテープを取り出す。最後まで巻ききっている。どうやらちゃんと録音されているようだ。しかし、起きている時には、時間差電波現象はなかったから、あのねのねの声が入っている可能性は、極めて低い。
「シーコ姉ちゃん、早く早く!」
一階から声を上げて、れんげはさらに急かす。やれやれ、とため息をつきながら階段を下りた。
「はい、どうぞ。私が聞いていた時には、イルカっていう女の人だったから、あのねのね、たぶん入っていないと思うよ。期待しないでね」
「うん、ありがとう!」
「どういたしまして」
「へへぇ、みんなといっしょに、広場で聞くことになってるんだ」
「みんなと?」
「体操終わってから、昨日の虫探しのグループで聞くんだよ!」
「ふーん。じゃあ、克子姉さんも参加するの?」
「うん、来るって言ってたよ。シーコ姉ちゃんも来る?」
「うーん…」
小学校と中学校の間の大グラウンドで、以前は毎日やっていたラジオ体操は、登校日が五回に設定されてから、お盆の週を除く、火曜日と木曜日の週二回になった。小学生以外は誰でも自由に参加していいことになっているが、大半の住民たちは、ほとんど参加することはない。私は何度か行ったことがあるけれど、このところご無沙汰している。おまけに今日は二回目の登校日。朝ごはんも済ませていないし、登校の準備もしていない。
「うーん…パス」
克子姉さんも参加するんなら、久しぶりに行ってみようかと、一瞬思ったけれど、夜更かしのせいで、眠気が気力を封じ込めてしまった。
「そう。じゃあ、行ってくるね」
れんげは、私が参加するとは、はなっから思っていない。
「はいはい、いってらっ…ふぁーい」
私はいつも、起きたてはだらしない。
いつもより、ちょっとゆっくりしすぎたから、学校まで走るはめになった。十時五分前に到着。今日は私が一番最後の登校になってしまった。
「あれ? シーコさん、おでこ、どうしたの?」
光子が私のおでこの絆創膏を指差した。前髪で隠したつもりだったけど、やっぱり目立つか。
「ちょっと、ふきでものが出来ちゃって」
「夜更かしでもしたの?」
由美が心配そうに首をかしげた。
「う、うん。それもあるけど、たぶん、何かにかぶれちゃったのかも。でも、大したことないから。あはは…」
わずかに笑いが引きつった。
「シーコ!」
和則が、珍しく声をかけてきた。いつも、私たちのおしゃべりには無関心で、先生が入ってくるまで居眠りしているのに。
「昨日の夜、お前の家のほうから凄い声が聞こえてきたけど、何かあったのか?」
うっ、私の悲鳴、大袈裟ではなかった。
「ああ、あれねえ…」
「そういえば、俺も聞こえた!」
元信が話に加わった。いけない。この話題がこれ以上大きくなっては困る。本当は、脱衣場で大きな蜘蛛を見て悲鳴を上げ、慌てて逃げようとして、壁におでこを思いっきりぶつけたなんて、口が裂けても言えない。
「な、何でも無いのよ。れんげが…、寝ぼけちゃってさ、あはは…」
「…?」
なんとか誤摩化そうとするが、かえって私の不自然な態度が目立ち、和則に不信感を与えてしまった。れんげ、あんたのことを生け贄にしてしまった、この姉を許してちょうだい!
「起立!」
三年の博己先輩が号令をかけた。良かった! タイミングよく、高井和先生が登場してくれた。と、安心したのもつかの間、
「椎子、夕べは大変だったってなあ。大丈夫か?」
着席したとたん、先生が自分のおでこを、指でちょんと突きながら言った。
「えっ?」
「お前の妹が、今朝のラジオ体操の時、言ってたぞ。ゆうべ、姉ちゃんが大きな蜘蛛見て、慌てて壁に激突して、頭、怪我したって」
「あっ、わっ!」
バレてしまった。こんなことなら、私もラジオ体操に出て、れんげのおしゃべりを阻止するんだった。私はすっかり動揺して、無意識のうちに、ペンギンの羽みたいに両手をパタパタと動かしていた。
「あーっ、やっぱりあの悲鳴はシーコだったか!」
「蜘蛛見て、びびって、大声出したってわけか!」
和則と元信が、わざと大袈裟に驚いた。ううっ、バレてしまっては仕方がない。ここは開き直るしかない。
「だって、こーんなに大きい蜘蛛だったんだよ!」
そのつもりはなかったが、手を広げ、実際よりも一回り大きく誇張してしまった。私、ムカデ話のれんげと、同じことを言っている。なんだかんだいっても、やっぱり姉妹だな。…なんて、感心している場合じゃない。
「そんなでっかい蜘蛛、い、いるわけないだろーっ! クッ」
涙目で、和則は必死に笑いをこらえてる。
「本当なんだってば! タランチュラかと思ったもん!」
咄嗟に出たとはいえ、何とみっともない言い訳。恥ずかしい。穴があったら入りたい。れんげを生け贄にしたバチがあたってしまった。
「まあとにかく、大したことないようだな」
高井和先生は、何事もなかったように締めくくった。おでこの傷は、次の夏休みには消える。だけど、その経緯は『タランチュラ激突事件』などと、適当なタイトルを付けられて、口達者な和則によって、この先、ずっと語り継がれていくだろう。…ああ、なんて歯痒い。しかし、実は素っ裸で壁に激突した、ってことがバレなかったのは、不幸中の幸いだった。
昨夜、私の悲鳴を聞いて真っ先に駆けつけた父だったが、天井の大蜘蛛を見るなり、
「か、母さん! 追っ払って!」
素っ裸でうずくまっていた私のことはほっといて、慌てて居間に逃げていった。はたきでささっと蜘蛛を追い払った母からは、
「こんなんでいちいち大騒ぎしないの!」
って怒られるし、れんげには、
「シーコ姉ちゃんの、弱虫」
と、またしても蔑まれてしまった。
一週間前、もちこし川上流で、糸とんぼたちに与えられた『なんか良いことがありそうな気配』は、どっかへ飛んで行ってしまった。
1975年8月7日 6:07