© Karin Sonoyama / Sakoyan 2010
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第一話 二十六回目の夏休み。その三
「心配ない。ただ気絶しただけのようだ」
聴診器を外し、ゴロベエ先生はゆっくりと顔を上げた。
少し距離を置いてじっと見守っていた私たちは、ほっと胸を撫で下ろす。
「起きたら、まずは風呂だな。こりゃあ一ヶ月は風呂に入っておらんぞ」
先生は呆れ、鼻をつまむ。とたんに、静まり返っていた野次馬たちが、
「もしかしたら、二十一世紀の人間は風呂に入らんのじゃあるまいか」
「まさかあ、石器時代じゃあるまいし」
「いやいや、分からんぞ」
「臭いのがオシャレだったりして」
などと、冗談まじりに勝手な憶測を立ててざわめき出した。
「それから、昼めし!」
ゴロベエ先生が声を上げ、野次馬たちを静める。
「この青年、さっきから腹の虫がグーグー鳴いとる。どうやら胃の中が空っぽのようだ」
と、自分のお腹を両手で押さえた。すると、
「私のところで、もうご飯は炊いてますから、おにぎりでも作ってきます」
静香おばさんが手を挙げた。
「いいのかい?」
「今度の世話係ですから」
「ああ、そうだったね。じゃあ、お願いしようか」
ゴロベエ先生がうなずくと、静香おばさんはすぐさま自宅に戻って行った。残った祐輔が、得意げにVサインを突き出す。
しばらくして、野球バカトリオの一人で、熱狂的な巨人ファンの誠次郎おじさんが、
「も、もしかして未来で…、未来で勃発したんじゃないかっ?」
唐突に立ち上がって言った。みんなの視線が誠次郎おじさんへ集中する。
「ちょっと誠ちゃん」
言葉をかけたのは、モアイ二号こと村長代理の浩司さん。浩司さんはモアイ村長の一回りも歳の離れた弟。顔は双子みたいにそっくりだけど、性格は正反対。とても村長に相応しいと言える人ではない。だけど実の弟だし、顔がそっくりだから、とりあえず村長代理ということになっている。誠次郎おじさんとは同級生で、そこそこではあるけれど、やはり巨人が好きな野球バカトリオのメンバーである。
「血相変えて、いったい何が勃発したっていうの?」
村長代理が尋ねると、誠次郎おじさんは拳を握りしめ、
「戦争だよ! 第三次世界大戦が起こって、日本が廃墟になって、だから…、風呂にも入れんようになって、食糧も不足してしまったんじゃないか!?」
とんでもないことを言い出した。あまりにも話が突飛すぎて、みんな唖然となった。さらに誠次郎おじさんは、
「きっと日本は、妬まれたんだよ!」
真顔でみんなに訴えた。
「せ、誠ちゃん、戦争だの妬まれただの、い、いったい何を根拠にそんなこと言ってるの?」
同じ野球バカトリオのとんでも発言に、村長代理も少し動揺気味。
「だってほら、前にド派手な姉ちゃんが言ってただろ」
「ド派手な姉ちゃんって…、ああ、イケイケの姉ちゃん」
「そう、そのイケイケ姉ちゃんが、将来の日本は世界一の金持ちの国になって、他の国々から羨ましがられているって!」
「そういえばそんなこと言ってたな。日本人は、世界の宝物をいくらでもお金を出して買い漁ってるって…」
誠次郎おじさんと村長代理のやり取りに、さすがのゴロベエ先生も、きょとんとしている。みんなも同じで唖然としたまま。話しに割って入ろうという人はいない。と思ったら、もう一人の野球バカが、二人のやり取りに加わった。
「確か、ゴッホの名画も、ハリウッドの映画会社も、日本人が買ったら大ひんしゅくまで買ったって、うまいこと言ってたね」
私の父だ。実は私の父も二人の同級生でそこそこの巨人ファン。この三人で野球バカトリオ。彼らは歓迎会の時に、毎回、プロ野球の質問攻撃をしてはゲストを困らせている。
「そう言ってたろ!」
「言ってた」
父と村長代理が口を揃えてうなずく。すると、
「つまりな、日本は、世界一の金持ちになったものだから、世界中の国に妬まれて、あれこれいちゃもん付けられて、きっと、戦争を仕掛けられたんだよ!」
誠次郎おじさんはさらに突飛な憶測を言い放った。
「えぇーっ、そ、そんなぁーっ!!」
わずかに間を外し、父が情けない顔をして驚いた。父だけではない。私だって同じだ。こんなに平和な日本なのに、将来そんなことがありえるの? みんなもそんなバカなって顔をして驚いている。だけど、
「こらこら、誠次郎! さっきから何をバカなこと言ってるんだ!」
村のご意見番でもあるゴロベエ先生だけは、冷静に聞いていたようだ。
「で、でも…」
「でももストライキも無い! そうやってみんなを不安がらせるようなデマや憶測を言いふらすのが、一番質が悪い!」
「ひぇ、はい…」
ゴロベエ先生に怒られ、誠次郎おじさんはとたんに身を縮めた。でもまだ良いほうだ。隣でゲストが寝ているから、怒られ方もずいぶん穏やか。本当だったら、大声でこっぴどく怒られていたはず。なにせ、ゴロベエ先生が本気で怒り出したら、そりゃあもう凄いのなんの! たとえば患者さんが言うことを聞かず、不摂生しようものなら、雷が直撃したような剣幕で怒り出す。
「だいたいお前さんたちは、巨人が最下位だからって、何でもかんでも悲観的に考えすぎる。たまには巨人のことは忘れて、頭を冷やしなさい!」
ゴロベエ先生は腕組みして三人を睨みつけた。声は控えめでも、その目はかなり怒っている。
「す、すんません」
野球バカトリオはしゅんとなった。
私はプロ野球のことはよく分らないけど、父によると、夏休みが繰り返すようになる前の年の昭和四十九年まで、巨人はとても強いチームだったらしい。だけど、昭和五十年になって、『我が巨人軍は永久に不滅です』の監督に替わってから、とたんに弱くなってしまったという。だから、熱狂的な巨人ファンの誠次郎おじさんは、いつだって落ち込んで溜め息ばかりついている。機嫌が良いのは試合が無い日と巨人が勝つ日。夏休みの間に放送されている試合で、巨人が連勝するのは八月上旬くらい。あとは、たまに勝つ日をいくつか挟んで、残りはもう散々な試合ばかりらしいから、夏休みの半分近くは落ち込んでいる。
「あんた、いい加減にしないと、テレビ、もう二度と見られないように、粉々に壊しちゃうよ! この巨人バカ!」
隣に座っていた奥さんの瑞穂おばさんが、誠次郎おじさんの腕を強引に引っ張った。
「えぇーっ!」
誠次郎おじさんが父以上に情けない顔をすると、近くで見ていた何人かが、堪えきれずに吹き出した。それをきっかけにして、また野次馬たちが、
「それよりキクばあちゃん、布団がえらい災難だったなあ」
「こりゃあ、丸ごと洗濯しないと、染み付いた臭いが取れんじゃろ」
「はっはっはっ、それじゃあ布団ごと風呂に入ってもらわんとなあ」
「そりゃいいや」
などと、再びざわめきはじめた。ゲストが寝ていることなどおかまい無し。それにしても、一時はどうなることかと思ったけど、やれやれ、一安心だ。
バス停のゴミ箱に捨てた蚊取り線香に、まさかまだ火がくすぶっていたとは知らず、いっしょに捨てた爆竹に引火してしまった。結局は祐輔たちの時限爆弾が、見事にタイミングぴったりで破裂したのだ。パニックに陥る寸前の爆音は、よほどの衝撃だったようで、気絶するとは夢にも思わなかった。でも考えてみたら、彼が気絶してくれて良かったのかも。あのままパニックに陥っていたら、もっと大変な事態になっていたかもしれない。
彼が気絶した後は、久しぶりの大騒ぎだった。介抱はキクばあちゃんに任せ、私は大急ぎでキクちゃん商店まで戻ると、赤電話でゴロベエ先生を呼び出し、続けて、何かトラブルがあった場合の連絡先である、村長代理と高井和先生へ連絡した。ついでに母にも連絡し、タオルやら洗面器やら、とにかく何か役に立ちそうな物を持ってくるように催促した。
祐輔と寛太は、畑に出ている富美蔵おじさんをダッシュで呼びに行った。トラクターを担架代わりにするためだ。富美蔵おじさんはすぐに駆けつけると、バス停から近い公民館に彼を運ぶことにした。しかし、悪臭のせいで、彼をトラクターの荷台に乗せるのにも一苦労。富美蔵おじさん一人では抱えきれず、悪ガキたちとキクばあちゃんまでもが加わって、やっとのことで彼を持ち上げた。そうやってみんなが悪戦苦闘している間に、私はキクばあちゃんの指示で、ばあちゃんの布団を二往復して公民館に運んだ。
やがてゴロベエ先生がオンボロ自転車で駆けつけると、騒ぎを聞きつけた父や他の住民たちがぞろぞろと集まり出して、公民館のまわりは、あっというまに野次馬たちで溢れた。
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聴診器を鞄に仕舞い、ゴロベエ先生が私たちを見回す。
「さて、後は何人か付いてやって、そろそろ解散したほうが良かろう。爆竹で気絶するほどの神経の細かい青年だ。目が覚めて、大勢に取り囲まれておったら、また警戒するかもしれん」
「それじゃあ、私が付いててあげようかね」
キクばあちゃんが、座ったまま、彼の近くにすり寄った。
「うん、そのほうが良いね。最初に会った人が居たほうが、少しは安心するだろうから。キクばあちゃん、すまんがお願いするよ」
「お安いご用だよー」
と、キクばあちゃんは顔をほころばせる。すると、
「おれも!」
祐輔がキクばあちゃんの真似をしてすり寄った。寛太もその後に続く。こうなったら、私も付き添わないわけにはいかない。
「じゃあ私も」
と、手を挙げた。そしたら明代姉さんが、
「後はよろしくね!」
私の肩をポンと叩いて言った。
「明代ったら、期待通りのゲストだったら、真っ先に付き添ってたくせに」
「あら、克子お姉様ったら、何のことかしら? おほほほほほ」
呆れる克子姉さんを横目で見ながら、明代姉さんは笑って誤摩化した。
結局、最初に出迎えた私とキクばあちゃんと祐輔と寛太、それから、お昼ご飯を取りに行っている静香おばさん、さらに高井和先生が加わって、彼の側に残ることになった。
野次馬たちが蜘蛛の子を散らすように帰って行くと、それまでシンとしていた近くの柿の木の蝉たちが、思い出したようにジワジワと騒ぎ始めた。気が付くと、腕時計の針は十二時をとうに過ぎていた。
1975年7月21日 11:38