© Karin Sonoyama / Sakoyan 2010
© Karin Sonoyama / Sakoyan 2010
第十五話 ずっと、五匹のままだった。その一
「ふぁ…」
思わずあくびがこぼれた。昨夜は、久しぶりに深夜放送を聞いた。たくろうのオールナイト・ニッポン。最初の十分だけ、と、ほんの少しのつもりが、八月三日にオールナイトで行われた野外コンサートの話題に聞き入ってしまい、結局、三時まで起きる羽目になってしまった。昨日、由美と光子が、たくろうのラジオはまだ一度も聞いたことがないっていうから、「今夜の放送は特に面白いよ」って、教えてあげた。そしたら、二人とも絶対に聞くって、わくわくしていた。それを見て、私もまた聞きたくなった。同じ放送をもう三回も聞いているというのに。以前、ビデオテレビで巨人の試合を繰り返して見ようと企んだ父の気持ち、かつては母と同じで全く理解できなかったが、今では私もよく解る。興味のあるものは何度聞いても楽しい。コンサートでは、たくろうとかぐや姫が交互に登場し、何十曲も演奏したらしい。さらに、かぐや姫の正やんが『風』としても出演し、すごく盛り上がったらしい。
鉛筆を持ったまま、作詞用のノートの上でほおづえをつき、睡魔に支配されそうな頭の中で、コンサートの様子を想像する。瓦を転がる雨音が、観客の声援のように聞こえる。
「いいなあ…」
ため息をこぼす。透さんが羨ましい。きっと東京じゃ、毎日誰かがコンサートを開き、いつでも好きな時に見られるのだろう。私は生のコンサートを一度も見たことがない。そもそも、この村にはもちろん、電車とバスで片道二時間の、映画館のある大きな町にさえ、フォークシンガーたちは誰一人訪れたことがない。歌謡曲の歌手だって、近くにやって来たという話しは一度も聞いたことがない。唯一私が直に見たのは、チョビひげを生やした武道派演歌歌手と称するおじさん。小学四年生の時、この村にやって来た旅芸人一座の一人だった。レンガを空手チョップで割った後に、美空ひばりの『柔』を気持ち良さそうに熱唱し、観客の一人に「なんで空手が柔道の歌を歌うんじゃ?」と、野次を入れられていた。だけど私は、初めて見る本物の歌手が珍しくて、おじさんの『柔』に熱心に耳を傾けた。今思うと、本当に演歌歌手だったかどうかは、実に怪しい。
気分を変えようと、椅子に座ったまま、手を組んで伸びをする。寝不足のせいか、肩が若干こっている。もう一度伸びを繰り返す。このところ、この仕草が癖になっているような気がする。
えびせんの香りが鼻先に届く。机の隅に視線を移す。眠気覚ましにお皿に盛ったえびせんを一つ摘み、端からゆっくりとかじっていく。目を閉じ、溢れる言葉から、流れにそったものを探り出す。
「時計…、針…、時計の針が重なる。それを…、見るたびに、君を想う…」
つぶやきながら、ノートに書き綴る。また、えびせんを摘み、食べる。言葉を探す。また、えびせんを食べる。言葉を探す。そうやって徐々に詩が出来上がっていく。コツコツと書きため、最近、ようやく形になってきた。
鉛筆を置き、詩の頭から目を通す。せっかく書きためても、この夏休みが終わると、文字は消えてしまう。記録できる手だては、記憶しかない。だから、できたところまでを何度も読み返す。今のうちに暗記しておく。もう少しで詩は完成する。そしたら次は最終目標、オリジナルの曲を作る。目標が高すぎるのは解っている。ギターもまだまだ弾きこなせてはいない。だけど、続けるのが肝心。センスは無くとも、やる気だけは心にみなぎっている。
「めざせ、シンガーソングライター!」
なんて、左の拳を突き上げて一人で盛り上がっていたら、下で慌ただしい声が聞こえてきた。麦茶のおかわりついでに、様子を見に降りてみる。
「母さん、栓抜き! 栓抜き!」
時計は四時半を回ったばかり。なのに、まだ試験場に居るはずの父が居間に腰を下ろし、ビールビンを片手に、母に催促している。いつの間に降りたのか、れんげが隣に座ってリモコンを持ち、テレビを点けようとしている。
「お父さん、どうしたの? 早いじゃない」
「お、椎子も見るか?」
「何を?」
「こうしえん、だって」
れんげが明るい表情で答えた。幸いなことに今日の雨は、れんげの頭痛を引き起す元にはなっていない。具合は朝から快調で、透さんの気遣いも不要だったようだ。
「こうしえん?」
「高校野球よ。まったく」
栓抜きを父に渡し、母はため息をついた。しかし、野球を毛嫌いする時の、険しい顔ではない。野球観戦中の父には、いつも批判的な態度の母も、なぜか表情が明るい。
「だって、偉大なタツノリの試合なんだぞ! 見ないわけにはいかないよ! …れんげ、早くスイッチ、スイッチ!」
と、父は鼻の穴を大きくして息巻いた。
「タツノリって、歓迎会の時に透さんが言ってた、あのタツノリ?」
「そうそう、そのタツノリ。将来の巨人と、日本の野球を背負って立つタツノリの、高校の試合。…なんだ、椎子、知らないのか? 神奈川のタツノリって言ったら、今、全国の女の子に大人気なんだぞっ!」
私に向かって、父は得意げに見え見えの知ったかぶりをかました。
「そ、そうなの? ぜんぜん知らない」
苦笑いで、私は首を振る。
「あなただって、ついこの前まで知らなかったくせに。巨人以外の試合は興味ないって、言ってたじゃない」
と、母が父の隣に腰を下ろし、鼻で笑う。
「…ん? そんなこと言ったっけ?」
父はとぼけてシラを切る。
「あ、『水戸黄門』やってる」
れんげがリモコンを持ったまま画面を指す。ちょんまげの高橋元太郎が、画面いっぱいで笑っている。
「『大岡越前』よ」
母がさらりと訂正すると、画面は、凛々しい加藤剛のちょんまげ姿に切り替わった。
「ほんとだ。『大岡越前』だ」
私もれんげと同じで、一瞬『水戸黄門』かと思ってしまった。この時間、再放送をやってたんだな。知らなかった。お昼過ぎから夕方にかけてのテレビは、母専用となっているから、この時間帯、私はほとんど見たことがない。
「やっぱり加藤剛は、何度見ても素敵ねえ…」
うっとりと、母の顔がほころぶ。
それにしても、私は昔から『水戸黄門』のうっかりハチベエと、『大岡越前』のタツゾウの区別がつかない。れんげも同じのようだ。まあ、私もれんげも、最近は時代劇なんてほとんど見なくなってしまったから、どうでもいいことではある。
「それより、高校野球!」
父がリモコンをれんげから横取りし、チャンネルを変えようとしたとき、画面に加藤剛に続くかっこいい男の人が現れた。
「あ、友和だ! お父さん、変えるの、ちょっと待って!」
私は慌てて父の手を押さえた。
「えーっ、もうすぐ始まるのにぃ」
顔をしかめる父に、母は、
「試合、何分から?」
「四十五分」
「まだ十分もあるじゃない」
と、チャンネル変更に待ったをかけた。れんげもうなずき、父からリモコンを奪い返そうとする。三対一じゃ、父に勝ち目は無い。
「じゃあ、十分だけだぞ」
父はしぶしぶ、リモコンから手を放す。
「友和も出てたんだ!」
意外なちょんまげ姿に私が驚くと、
「知らなかったの? 結構騒がれてたのに」
さっきの父と同じように、とぼけた顔で母は言った。
「知ってたら、とっくに見てたわよ」
「あら椎子、あんた、友和のファンだったっけ?」
「そうじゃないけど、ほら、前のゲストの恵子さんが、言ってたじゃない。やっぱり気になっちゃうよ。百恵と友和が、五年後に結婚するって知っちゃったら」
恵子さんは、六年後の一九八一年からやって来たゲスト。恵子さんから聞いた未来の大ニュースは、何と言っても百恵と友和の結婚! 恵子さんから「百恵は友和と結婚し、トップスターのまま芸能界を引退する」って聞いて、私たち十代の女子は大騒ぎした。とくに由美が「友和のバカーッ」と、歯を食いしばるほど悔しがり、光子に「由美、マーク・レスターはどうしたの?」と、呆れられていた。
「そうそう、みんなびっくりしたよねえ。このあと、赤いなんとかのドラマでも、いっしょに出るんだよね」
れんげも恵子さんの話しを思い出した。赤いなんとかのドラマとは『赤い疑惑』のことだ。私が中一の時にやっていた『赤い迷路』に続く、百恵の出演ドラマ。恵子さんによれば、二ヶ月後の一九七五年の十月に始まるそのドラマで、百恵と友和は共演し、大評判になるという。それ以降、二人はドラマや映画で何作も共演することになるのだそうだ。スター同士が共演しながら交際し、ドラマのように次第に愛が深まっていく…。ああ、なんて素敵なんだろう。
結局私たちは、しびれをきらしそうになっている父を横目に、番組終了まで、友和と加藤剛に見入った。
「やっと終わった。れんげ、リモコン!」
矢のような速さで父がチャンネルを切り替えると、とたんに、画面から球場の声援が溢れた。
「ひぇー、もう始まってる!」
慌てた父は顔をしかめる。しかし、すぐにポカンとなって固まった。
「…あれ?」
「どうしたの?」
母は父とテレビを交互に見た。
「まだ、前の試合をやってるみたいだ。お、おかしいな…。予定の時間、過ぎてるのに。少しずれ込んでいるのかな?」
父が首を傾げると、突然、電話が鳴った。母がため息をこぼし、腰を上げる。と、テレビにスコアボードが映った。六回の裏を終えたばかりのようだ。素人の私から見ても、まだまだ終わりそうにない。
「しかし、こんなに時間がずれるってこと、ないよなあ…?」
父がまた首をかしげると、れんげが、うれしそうに声を上げた。
「あ、もしかして、時間差電波かも!」
「えーっ、まさか…大事な時に、そ、そんなあー」
情けない声を出しながら、父は頭を抱える。
「あなた、誠次郎さんからよ」
母が受話器をこっちに向けた。父は跳ねるように腰を上げ、慌ててそれを受け取る。
「あ、誠ちゃん、試合、まだ始まってないよ。…えっ? そ、そうなの?」
電話口の父が拍子抜けしたような声を出した。母が後ろで、やれやれと首をすくめる。
「ねえねえ、シーコ姉ちゃん! 時間差電波だったら、今夜こそ、あのねのね、放送するかも!」
れんげが期待たっぷりで私を見た。
この前、頼まれて録音した深夜放送、結局、『あのねのねのオールナイト・ニッポン』は録音されていなくて、れんげはとてもがっかりしていた。見兼ねた私は「じゃあ、また試してみるから」って、再びテープを預かった。だから、れんげの期待も大いに解るのだけど…、
「時間差電波じゃ、ないみたいよ。きれいに映っているから…」
私は身を乗り出し、画面を見ながら答えた。
「えー、なんだあー」
がっくりと、れんげは肩を落とす。時間差電波の時には、映像が数分おきに歪んで乱れる。ラジオの場合も、奇妙な雑音が断片的に入り込む。今はそんな様子はない。それに、今日は『あのねのねのオールナイト・ニッポン』の曜日ではない。時間差電波の時は、決まって曜日だけは一致する。たとえば火曜日に時間差電波が発生した場合、テレビやラジオには、過去の火曜日の電波が受信される。
「間違ってたんだって…」
電話を終えた父が、口をとがらせたまま呟いた。
「えっ?」
私たちは同時に父に顔を向ける。
「タツノリの試合、昨日だったんだってさ。…はあ」
れんげ以上にガックリと肩を落とす。
「まったく、あなたたちったら」
と、母が呆れる。すると父の顔が今にも泣き出しそうに歪んだ。私とれんげはその様子を見て、たまらず吹き出した。
1975年8月12日 16:25