© Karin Sonoyama / Sakoyan 2010
© Karin Sonoyama / Sakoyan 2010
短い小道を下りきった時、心地よい風が髪を撫でて行った。清々しさを感じながら、車ギリギリ二つ分の、メイン道路へ出る。向こうに、岩柿村のバス停が見える。トタンの屋根が、日差しをやや強く反射している。夏休みの初日、新しいゲストを出迎えるため、いつものように、私はそこへ向かう。
自宅からバス停までは徒歩十分。バスの到着はきっかり午前十時。いつもだったら五分前に着くように、九時四十五分に家を出る。今日は三十分も早い。学校には遅刻したことがない。十分以上早めに登校したこともない。そんな私がこんなに早く出かけるのは、なんとなく素敵な予感がするから。私だけではない。さっき、中学の制服に着替えている最中に、意地悪を言った母だって同じ。
「あら椎子、もう出かけるの?」
「べつにいいでしょ、たまには早く出かけたって!」
素敵な予感を悟られないように、私は顔を背けた。すると母は、いかにも意地悪そうな目つきで私の顔を覗き込み、
「…ははーん。さては、かっこいい男の子が来るんじゃないかって、期待しているんじゃないの?」
と言ってのけた。くやしいけれど…図星だ。いつもなら、そんなことを言われたら、ムキになって言い返す。だけど、母の顔を見たとたん、言い返す気力が何処かへ弾け飛んだ。お化粧が、いつもより二倍は濃い。きっと、私以上に期待しているにちがいない。若くてかっこいい男の人が、バスから降りてくるんじゃないかって。まったくこれでは、竹元家の大黒柱、父の立場が無い。
私の予感と母の期待には、それなりの根拠がある。前回のゲストが三十代の女の人だったから。この村には、夏休みの初日になると、かならず新しいゲストが訪れることになっていて、前回が三十代の女の人だった場合、次のゲストは、きまってかっこいい男の人が訪れているのだ。
これまでのゲストで、三十代の女の人が訪れたのは、前回のゲストだった恵子さん以外に、三度あった。で、その場合、次に訪れたゲストは、三度とも十代後半から二十代前半の、とても素敵な男の人だった。二度目の時なんて、ヒデキとひろみと五郎を全部足して三で割ったような、ものすごくハンサムな男の人がやって来た。その時は私たち十代の女子より、母を含めた三十代から四十代のおばさんたちが、舞い上がってしまって大騒ぎした。無理もない。ゲストが訪れるようになる前までは、岩柿村はおろか、周辺の村にさえ、アイドルのようなかっこいい男の人なんて、ほとんどいなかったのだから…というのは母たちの弁。私に言わせれば、地元にもなかなか捨てたもんじゃない人もいる、と反論したくなる。だけど、地元の男性たちを庇護するそんな貴重な意見など、たちまち葬り去られてしまうほど、その時の大騒ぎは、とにかく凄まじかった。恥ずかしいことに、結局夏休みの後半には、私たち十代の女子たちも、母たちのあとに続く羽目になってしまった。
ゲストを迎えるのは私の役目。以前は村中の住民たちで出迎えていた。だけど、あるゲストが状況を理解する前に、私たち大勢の人間に取り囲まれたため、警戒しすぎてパニックに陥ってしまったことがあった。その後、村の話し合いで、次からはゲストを刺激しないよう、私に白羽の矢がささった。子供と大人の中間の女子ならば、どんなゲストが訪れても警戒することはないだろう、という理由からだった。以来、もう二十人以上を出迎えている。まれに、横柄な態度でカチンときたゲストもいたけれど、今日のような日は、この役目がとても光栄に思えてくる。というわけで、今日も…いや、今日は、村の女性たちが、きっと大いに期待しているであろうゲストを出迎えるために、私はバス停に向かっている、というわけだ。
私の家とバス停のちょうど中間辺りに、キクちゃん商店がある。その前を通りかかった時、ちぎれた雲が優しい影をつくって、ゆっくりと流れて行った。道路脇の近くのねじ花と遠くのひまわりが、踊っているように交互に揺れている。キクちゃん商店の隣の、見慣れた夏みかんの木は、取り残された実が黄金色の飾り付けのようで、季節はずれのクリスマスツリーに見えてくる…っていうのはさすがに強引なたとえだけど、とにかく、毎回ほとんど変わらない夏休み初日の朝の風景が、今日は何もかも素敵に感じてしまう。なのに、ジョウロを手にしたお店の看板娘が、裏からひょっこりと姿を現し、素敵な風景に水をさした。
「あれまあ、今日はずいぶんと早いわねえ」
「あっ、おはよう…キクばあちゃ…ん!?」
わっ、まさか、キクばあちゃんまで!
村で唯一のお店の自称看板娘、下谷キクばあちゃんは、もうとっくに七十歳を越えている。そのキクばあちゃんのしわしわの唇が真っ赤に染まっている。新御三家を全部足して、三で割ったかっこいい男の人の時でさえ、素顔をおもいっきりさらけ出していたのに…。生まれて初めてキクばあちゃんのお化粧を見た。
わずかにめまいを感じ、私はよろけそうになった。そんなことなど、まるでおかまいなしに、
「今日のゲストは、どんな人なんだろうねえ」
と、赤い口をゆがめて笑った。やっぱりキクばあちゃんも期待している!
私が物心ついた頃には、その面影は少しもなかったけれど、若い頃のキクばあちゃんは、それはそれは大変な美人だったらしい。この村の伝説の一つになっているほど。キクばあちゃんはその後、周囲の反対を押し切って、ハンサムな男の人と、当時では珍しい恋愛結婚をしたそうだ。だけど、すぐに旦那さんと死に別れ、以来、ずっと未亡人のままだという。だからって、いまさらときめきを感じる歳でもないでしょうに。もしかしたら女って、どんなに歳をとっても乙女のままでいられるものなの? うーん…いつか私も、キクばあちゃんみたいになるのかな…。ふと、私とキクばあちゃんを重ねた姿を想像してしまった。
この村では、今のところ将来を気にする必要ないけれど、こんな時は、年の近い者に譲ってほしいものだ。まったく、この村のおばさんたちときたら、「さあ、ここは若い者にまかせて」…くらいの大らかさは無いのだろうか。
とはいっても、私もあれこれ言える立場ではない。もっともらしく「素敵な予感」なんて言っているけど、言葉を変えているだけで、かっこいい男の人を期待している母やキクばあちゃんと、結局は同類なのだ。そう考えたら、なんか私だけが良い思いをしているようで、キクばあちゃんに悪い気がして、
「良かったら、いっしょに迎えに行かない?」
と、誘ってみた。
なんか、待ってましたと言わんばかりのキクばあちゃん。
「大丈夫。私一人でなきゃいけない、ってわけじゃないんだし。それに午前中は、お客さん、来ないでしょ」
「そうだねえ」
「あとは、留守番ノートに任せればいいじゃない。行こう!」
なんて大らかな私。
「朝顔の水やりも終わったことだし、そうしようかねえ」
キクばあちゃんは、嬉しそうにうなずいた。
私が一人で出迎えるのは、村の話し合いで決まったことだけど、村の掟っていうほどのものでもない。どんなゲストがやってきても、か弱い『乙女』二人に警戒することはないだろう。
私とキクばあちゃんは、道路の真ん中を横に並んで歩いた。岩柿村のメイン道路、車はほとんど通らない。もうすぐゲストを乗せてやってくるバスだって、この道を通るわけではない。
「シーちゃん、毎回ご苦労様だねえ」
そう言って気遣うキクばあちゃんは、唯一、「コ」を付けない愛称で私のことを呼ぶ。
「ぜーんぜん平気! いつも楽しみにしているくらいだもん」
カチンときたゲストはあったけれど、このお役目をきついと思ったことは、一度もない。
「はっはっは、そりゃあ良かった。ところで、もう何人目になるかねえ…」
「えーと…、今日で…二十六人目よ」
「おや、もうそんなになるのかい!」
前方のバス停上空を見ながら、キクばあちゃんは大げさに驚いてみせた。あの日から、もう二十五人ものゲストが訪れている。本来なら三年は経っているから、今頃私は、とっくに高校生になっている。こうして今でも中学の制服を着ているのは、あの大異変のせいなのだ。
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そもそもこの村にゲストが訪れるようになったのは、あの大異変とモアイ村長の失踪事件が大きく絡んでいる。モアイ村長とは、村の悪ガキたちが付けたあだ名で、本名は烏山徳之進。仮に私があだ名を付けたって、それ以外に思い浮かばないほど、イースター島のモアイにそっくりだし、侍みたいな名前どおり、めったに融通の利かない頑固なおじさんだが、村の住民たちからは絶大な信頼を得ていて、ずっと村長を務めている立派なおじさんなのだ。
そんなモアイ村長が、村に大異変の起こったあの日、こつ然と姿を消した。さらにその後の村の状況に気づいた私たち村民は、もう大混乱! なぜなら、モアイ村長が姿を消した瞬間から、岩柿村は、その年の一ヶ月と少し前に、突然、時間がさかのぼってしまったのだから。つまり、村ごとタイムトラベルをしてしまったのだ。誰かが一時的にタイムトラベルをする、というのは、ドラマや漫画ではよくある話だけど、一つの村がまるごとタイムトラベルをするというのは、聞いたことがない。岩柿中学校の高井和先生によると、世界的に有名な物理学博士の、タイムトラベルを可能にするらしい、なんとかという理論でも、この村の現象は説明できないらしい。
とにかく、村長が消え、時間がさかのぼったってことだけでも大変だというのに、事態はそれで終わらなかった。タイムトラベルをした次の日、村中が大混乱している最中に、村長と入れ替わるように最初のゲストが訪れ、私たちをさらに混乱させた。なんとそのゲストは、十年後の未来からやってきた人だった。以来この村は、昭和五十年の七月二十日から八月三十一日までの同じ四十二日間を、ずっと繰り返えすようになって、そのたびに、未来からのゲストが入れ替わりに訪れるようになった。
その時私は、二階の部屋で、やり残していた宿題を慌てて片付けていた。翌日にノートを渡す期待感で溢れ、本当は宿題どころではなかったから、なかなかはかどらず、机の隅のつけっぱなしにしていたラジカセのラジオも、ほとんど耳に入らなかった。だけど、無関心だったそのラジオに、突然、キュルキュルと耳障りな雑音が入ってきた。次第にその音は大きくなって、やがてザーザーと土砂降りのような雑音に変わった。さすがに気になって、周波数のダイヤルを回してみた。だけど、どこを回しても同じ状態。しかたがないからラジオを消そうとしたけど、スイッチをオフにしても、土砂降り雑音はいっこうにおさまらない。父に中学の入学祝いに買ってもらったラジカセ、まだ一年ちょっとしか使っていないのに、もう壊れちゃったかと、ちょっと焦って背面を見たり、持ち上げて底を覗き込んだり…。でも、機械オンチの私に故障の原因が解るわけがない。
やがて下から、ワイドショーの心霊特集好きな母の、おぞましい奇声が聞こえてきた。そんな時はだいたい、何でもないことで、心霊現象だの、怪奇現象だの、と大騒ぎしているのだ。慌てて一階に下りると、台所で天ぷらを揚げていた母は、私を見るなり、
「椎子! 怪奇現象よっ!」
わくわく顔で叫んだ。やっぱりラジオの雑音のことかと、私は一瞬思ったけれど、母はすぐに揚げたての天ぷらをつかんだままの菜箸で、窓の向こうを指した。その先には、家から七百メートルくらい離れた岩柿村のバス停があって、いつも平気で十分は遅れる遅刻魔のバスが、珍しくその時はもう到着していたのが見えたのだけど、母が奇声を発したのは、ラジオの雑音のことでも、早すぎるそのバスの到着のことでもなかった。なんと、バス停の上空に、ひとかたまりの不思議な雲がプカリと浮かんでいたのだ。
「な、何よあれ!?」
「ねっ、凄いでしょ! 本物の怪奇現象よ!」
本当に本物の怪奇現象だった。コッペパン型をした雲が、薄ピンク色の光を放ちながら、他の雲よりもずっと近いところに浮かんでいた。
私と母はもっと近くで見ようと、ラジオと天ぷらのことはほっといて、すぐにバス停に向かった。途中で、往診の帰りにキクちゃん商店に立ち寄っていたゴロベエ先生も「何事だ!?」と、後に続いた。私たちは、次第に広がっていくピンク色の雲を見ながら駆けた。なぜか警戒心なんてまったく起こらなかった。小学生の時に見た流星群の時みたいに、心が躍るような感覚がしていた。
やがて私たちが、バス停まであと百メートルほどに近づくと、バスにモアイ村長が飛び乗るのが見えた。ちょうどその時、ピンク色の雲は村の上空をすっぽりと覆ったところだった。まさかそれが大異変の前兆だとは、その時は夢にも思わなかった。
あとで分かったことだが、この時、村のいたるところで異変が起こっていたらしい。小学三年生の我が妹のれんげは、その一つ上の悪ガキ祐輔の家で、やはり一つ上の悪ガキ寛太といっしょに、特撮ヒーロー番組「ジャイアント仮面」を見ていたら、一番のお気に入りの場面で、突然、テレビが変な音をたてて画面が映らなくなった。
いつも無表情で、小型のトラクターを飛ばしている富実蔵おじさんは、村のはずれの畑から自宅へ戻る途中で、突然、エンジンが止まったり動き出したりを小刻みに繰り返し、うっかりバランスを崩して脇の田んぼに突っ込みそうになった。
キクばあちゃんは、私たちの後を慌てて追いかけて行ったゴロベエ先生を見送りながら、冷蔵庫に残ったアイスたちの整理を始めていた。すると、冷気が火山噴火のようにわき出し、とっさに、近くにあった空きビンケースを、次々に重ねて封をした。
バスの運転手の小松さんは、珍しく十分も早くバス停に着いたために、時間調整と休憩を兼ね、バスから降りて、プレハブ仕立ての停留所の中でタバコをふかしていた。そしたら、乗客は一人もいなかったバスが、ガタガタと揺れ始め、閉めたはずのドアが勝手に開いた。そんなふうに、その日、バス停上空にピンク色の雲が発生した時、村じゅうの電化製品や機械が、異常な状態に陥っていたのだ。
あの日から、もう三年になる。でも実際には少しも時間が進んでいない。私たちには三年分の記憶が残っているのに。ここがこの村のやこしいところだ。
この作品の一部、全部を無断使用、複製することを固くお断りいたします。
© Karin Sonoyama / Sakoyan 2012
第一話 二十六回目の夏休み。その一
1975年7月21日 9:15