第三話 音楽的センスは、ほぼ無い。
第三話 音楽的センスは、ほぼ無い。
麦茶を入れたコップに、窓の外が映っている。真ん中を、水滴がゆっくりと通り過ぎて行く。その様子をぼんやりと眺め、優しい歌声に私は耳を傾けている。賑やかな昼下がりを、メロディに乗って、水滴がなだめて行くように感じる。木陰で休んでいるように、部屋の空気が和らいでいる。
サビの裏声が、ジンと心に響く。風のファースト・アルバムのB面ラストの曲『お前だけが』。私のお気に入りのアルバム、どの曲も素晴らしい。なかでも『お前だけが』は、特に好き。何度聞いても飽きない。むしろ、聞けば聞くほど好きになっていく。私が買った数少ないアルバムだから、ひいきめに聞いているわけじゃない。何よりもこの曲は、終わった後も優しい余韻に浸らせてくれるから。…なんて、うっとりとしていたら、いつの間にかプレイヤーのアームが、レコードの溝から離れようとしている。私は慌てて、ラジカセの録音一時停止ボタンを押した。
「次は、どれにしようかな…」
カラーボックスの前にしゃがむ。横置きで使っている、三段のカラーボックス。右側の段に、愛しいLPレコードたちが、びっしり五十枚ほど詰まっている。
プレイヤーにかけるレコードを選ぶたびに、いつかのゲストが言っていたことを思い出す。未来じゃ、フォークなんて聞いている人は、ほとんどいないって言っていた。奥野川の川エビたちと同じ運命なのかしら。きっと二十一世紀じゃ、唄う人も聞く人もいなくなって、フォークは絶滅しているのかもしれない。そう思うと、どのレコードたちもますます愛おしくなる。
たくろう、陽水、チューリップ、かぐや姫…、ちょっと前のフォークのレコードは、だいたい一通り揃っている。ビートルズやサイモン&ガーファンクル、カーペンターズなど、外国の音楽のレコードも少しはあるけど、大半は日本のフォークソング。中段のシングルレコードは約三十枚、全てフォークソング。私の宝物。とは言っても、実は私が自分で買ったのは三枚だけ。あとは全部貰いもの。音楽好きの美奈子姉さんから譲り受けた。美奈子姉さんは、子供の頃からずっと遊んでもらっていた、かつて私の家の近所に住んでいた親戚のお姉さん。私がフォーク好きなのは、美奈子姉さんの影響をたっぷり受けているから。
私が中学に入学する直前のことだった。美奈子姉さんの家に遊びに行ったとき、
「これって、なかなか良いわよ」
って、陽水の『氷の世界』と、たくろうの『元気です』のLPを聞かせてくれた。「何だか、凄い!」聞いている途中で、体の中に電気が走ったような気がした。それまで歌謡曲しか興味がなかった私は、その日、フォークに目覚めた。以来、すっかり虜になった。
それからというもの、毎日のように美奈子姉さんのところへ出かけ、レコードを聞かせてもらった。だけど、二学期が始まった頃に、美奈子姉さんは都会の人のところへ嫁いで行くことになった。そして、
「荷物になるし、もう聞かないから」
って、嫁いで行く前の日に、全部のレコードを二箱の段ボールに詰めて置いて行ってくれた。美奈子姉さんのことだから、フォークに目覚めた私のために、要らないふりをして譲ってくれたのだろう。本当は、まだまだ聞いていたいレコードも、きっとあったはず。だから、美奈子姉さんの分まで、私はずっとこのレコードたちを聞き続けていたい。たとえ、時間が戻ったとしても、いつまでもずっと。
夏休みが繰り返すようになって、私がフォークソング部を作ったのは、そんな思いがあるから。
「ラストは、やっぱりこれだな」
たくさんの候補の中から、陽水のシングル『夢の中へ』を選んだ。目当はA面ではない。風のLPレコードと入れ替え、B面に針を落とす。ラジカセのボタンをもう一度押し、一時停止を解除する。陽水の曲の中で、私が一番好きな『いつのまにか少女は』。ピアノとベースのイントロが素敵なこの曲は、歌詞よりもメロディが気に入っている。
テープの残量が少ないけれど、なんとか入りそうだ。この曲を入れて、選曲用のテープが完成。このA面には、好きな曲と比較的唄いやすそうな曲を選んで私が録音した、フォークベスト全集が、裏のB面には、NSPのファースト・アルバムの曲が入っている。夏休みが繰り返す前に、同級生の美香子が、NSPのレコードを持っていなかった私のために録音してくれたもの。明日の部活で、一年の由美と光子の三人でこのテープを聞く。演奏するための練習曲を決めることになっているのだ。
フォークソング部は、元々、音楽室に好きなフォークのレコードを三人で持ち寄って、足の付いた古いステレオで聞くだけの、いわゆるレコード鑑賞クラブだった。やがて、自分たちでもギターを抱えて、弾き語りに挑戦してみようということになった。きっかけは、陽水の『氷の世界』を鑑賞していたとき、音楽室にあったクラシックギターを、光子が曲に合わせて冗談で弾く真似をしてからだった。まったくギターを弾けない光子が、その時、なんとなく様になって見えた。もしかしたら、私たちもできるんじゃないの? 由美も私も、ふと、そう思った。よくある勘違い。だけど、せっかくフォークソング部って名前なんだから、聞いているだけじゃつまらない。三人でフォークグループを結成して、何か演奏してみよう! と、その日のうちに三人の意思が固まった。とはいうものの、私たちはレコードを鑑賞することは得意でも、ギターはもちろん、楽器一つ弾けやしない。正直に言えば、音楽的センスはほぼ無いに等しい。まあしかし、文化祭で演奏するわけではないし、お気楽な部活なんだから、誰も文句はあるまい!
無事にテーブの録音が終わり、麦茶のおかわりのために一階に降りると、れんげがいつのまにか戻って来ていた。タイミング良く、冷蔵庫から麦茶ポットを取り出している。
「お帰り、れんげ」
「ただいま…」
ポットをテーブルに置きながら、れんげは溜め息をついた。
「やっぱり、だめだったの?」
「うん。今日も部屋に閉じこもったまま」
「そう。残念だったね」
「やれやれだよ」
今日こそは、二十一世紀のお兄ちゃんを案内するんだって、張り切って祐輔の家に出かけて行ったのに、やっぱり、だめだったか。
「でもね、お兄ちゃん、昨日の晩ご飯と今朝の朝ご飯、とっても美味しそうに食べたんだって」
「じゃあ、もうすぐ元気になるわね」
「だといいけど…」
麦茶をコップに注ぎながら、れんげは肩を落とした。
「あ、私も麦茶ちょうだい」
コップをテーブルに置いて、れんげと向かい合わせの席に着く。
「はいどうぞ」
ポットを傾けながら、れんげはまた溜め息をついた。よっぽどがっかりだったんだな。
「元気出しなさいよ。あんたが落ち込んでどうすんの。きっと、すぐに案内出来るわよ」
「だと…いいけど…。あれ? ところでお母さんは?」
「出かけたよ。たぶん、福恵おばさんとこじゃないかな。回覧板届けなきゃって、言ってたから」
「回覧板って、歓迎会の準備のこと?」
「たぶんね」
「歓迎会、できるかなあ」
「大丈夫よ。まだ一週間も先なんだから」
「そうだよね! まだ一週間も先だもんね!」
れんげは、あっという間に立ち直った。ゲストの彼や心配性の由美と違って、呆れるほど都合の良い性格をしている。
「ねえ、シーコ姉ちゃん」
「なあに?」
「お兄ちゃんの時代って、何年先?」
「二〇〇九年だから、…三十四年後よ」
「三十四年! 凄ーい! れんげが、えーっと、いくつになってるんだっけ?」
驚いて、れんげはまともに足し算が出来ないでいる。
「あはは、何動揺してるのよ。あんた今、八歳だから、四十二歳…に、なって…!」
今度は私が驚いて、言葉に詰まってしまった。私が四十七歳になってる! れんげも私も、今の母よりもずっと年上。私なんか、もしも早めに結婚しちゃったら、孫がいてもおかしくない年齢じゃないの! 二〇〇九年って遥か彼方の未来だって感じがして、今まで意識していなかった。自分の歳に置き換えて考えたら、とたんに、私の未来に暗雲が立ちこめた。やっぱりこの村は、時間が繰り返していたほうが、都合がいい。
「…あれ? シーコ姉ちゃん、どうしたの?」
「あ、あははは…」
思わず笑いが引きつった。初日に頭をよぎった、キクばあちゃんと私を重ね合わせた姿が、また、じわじわと浮かんできてしまった。
1975年7月23日 14:27