© Karin Sonoyama / Sakoyan 2010
© Karin Sonoyama / Sakoyan 2010
第十六話 特別教師。その二
「ああ、NSPがあんな唄を唄っていたなんて…」
音楽室で、由美はよろめき、倒れそうになるふりをする。
「由美っ、お願いだから、こんなことでNSPを嫌いにならないでっ!」
光子は由美の冗談に合わせ、彼女に必死にしがみつくふりをする。
「もう、ふたりとも! いい加減にしなさいっ!」
私も冗談半分で、叱りつけるふりをする。
「あはは、ごめんごめん。それにしても、あんなおかしな唄をNSPが唄っていたなんて、ぜんぜん知らなかった」
「ねえ、ちょっとビックリ!」
二人は驚く。光子より由美の方がその驚きは大きい。ボーカルの由美には、やっぱりちょっとショックだったようだ。
「あの唄が入ってること、私もすっかり忘れていたの。いつも早送りして『さようなら』ばかり聞いてたから」
このところ、恥ずかしいミスが多い私、フォークソング部部長の立場がない。…といっても、部長の自覚はまったくないけれど。
さっき、高井和先生は苦笑いで許してくれたが、和則と元信からは案の定、大ひんしゅくを買ってしまった。大概のことは大目にみてくれる博己先輩さえ「今日はもうお腹いっぱいだから」と、バレバレの言い訳をして、カレーを3分の1ほど食べ残した。ううっ、せっかくの特製カレーが…。大失敗。きっと透さんにも、嫌な思いをさせてしまったに違いない。なんて思ったら、音楽室に本人がひょっこりと顔を出した。
「あ!」
私は反射的に席を立ち、
「透さん、さっきはすみませんでしたっ」
と、頭を下げた。
「えっ?」
「食事中に変な音楽、流してしまって…」
呆れられるのを覚悟した。なのに、
「あはは、あの唄のことですか。子どもたちには大ウケしてましたよ。おかげで楽しい給食でした。それに、野菜カレーとサラダ、とってもおいしかったです。ごちそうさまでした」
と、透さんは私よりも深々と頭を下げた。その背に後光が差し出す。ああ、貴方って、なんていい人なの! たちまち私の心に満開の花畑が広がる。
「それより、特別授業、おつかれさまでした!」
気を利かせ、由美と光子が話題を切り替えた。由美、光子、ナイスタイミング!
「ど、どうも」
照れ笑いで透さんは頭を掻いた。すぐに私も切り替える。
「子どもたち、とても楽しそうだったし、すっごく良かったですよ」
と、何食わぬ顔で感想を述べてしまった。陳謝の心は何処へやら、我ながら厚かましい。けれど『便所虫』のことは、できればさっさと忘れたい。
「いやあ、大したこと教えていないんだけどなあ…」
また頭を掻いて、透さんはうつむく。
「そんなことないです。私たちも、透さんに授業をお願いしようって、話していたんですから」
すかさず私がフォローすると、
「透先生! 私たちにも、キャラクターの作り方、教えて下さい!」
「後で、高井和先生からお願いがあると思いますから、ぜひ、引き受けて下さいね!」
由美と光子が手を合わせて懇願した。透さんはたじろぎながらも、
「さっきのような授業でよければ…。でも、いいのかなあ」
と、また頭を掻いた。
「いいんです!」
私たちは揃ってうなずいた。
「ところで、あの…、高井和先生なんですけど、どこだか知りませんか?」
ふいに、透さんが辺りを見回し、
「隣に居ませんでしたか?」
と、光子が壁越しに職員室を指差した。
「はい、居なかったです」
「じゃあたぶん、グラウンドに降りていると思います。これから、男子たちの部活の時間ですから」
今度は私が、グラウンド方向を指差して言った。
「あ、もしかして、ソフトボールの試合のことですか?」
由美が聞くと、
「いえ、別の件で、ちょっと話したいことがあって…。い、いや、大したことではないんだけど。…じゃあ、グラウンド、行ってみます」
と、透さんは少し慌てて教室を出て行った。話したいことって、いったい何だろう。なぜか、わずかな不安が胸に引っかかった。
「ちょっと話したいことがあって」と言った時の透さんの顔色が、僅かに曇ったように感じた。由美と光子は何も感じなかったようだから、たぶん、私の気のせいなのだろう。だけど、一昨日、父が目撃した透さんの様子も少し変だったっていうし、この微かな胸騒ぎは、いったい何だろう…。いや、やっぱり、と首を振る。息を深く吸う。そして、それを払拭するように、私は自分に言い聞かせた。「きっと気のせいだ」
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最後のコードを、光子と同時にゆっくりと弾いた。昼下がりの音楽室に、心地良い余韻が響いてる。息を殺し、耳を澄ます。弦の振動が次第に小さくなって、静かに音が消える。目で合図しながら、三人揃って拍手した。これまでで最高の『さようなら』、ノーミスで演奏できた自分たちを褒めたたえる。
「さあ、じゃあ次の曲、始めようよ」
と、由美が催促。光子と私はギターのチューニングを確認しながらうなずく。まずは私が昨日一日で仕上げた、コードと詩を書いたメモを見ながら、カセットでNSPの『あせ』を二回続けて聞いてみた。
「テンポがずいぶん速いね。追いつけるかな…」
聞き終わったあとに、光子が自信なさげな顔をした。
「テープの速さに合わせる必要はないんだから、最初はスローペースで練習しようよ」
由美が、光子の肩をポン、と叩く。
「コードが違うだけで、弾き方は『さようなら』とほとんど同じみたいだから、大丈夫よ」
私も光子の背中を押す。
「あはは、そうだね!」
たちまち、光子は自信を取り戻す。
早速、練習に取りかかる。コード進行はE、Gシャープ、A、Bセブン。この中でやっかいなのがBセブン、その押さえ方を光子に説明する。
「5弦の2フレットを中指、4弦の1フレットを人差し指、それから、えーっと、薬指と小指で2フレットの3弦と1弦を押さえるの」
「こうね、…うわー、小指がつっちゃいそう」
光子の悲鳴に、由美がクスッと笑う。
「たしかにちょっと窮屈だよね」
私もまだ押さえ慣れていない。一旦、ギターから手を離し、左手の小指を摘んで軽くマッサージをする。光子も真似をして、つりそうになった指をほぐす。
「でも、すぐに慣れるよ」
と、私は再びBセブンを押さえた。
しばらくの間、メトロノーム代わりに由美が手を叩き、スリーフィンガーでゆっくりとコード進行どおりに弾いてみた。二人ともBセブンで音がかすれる。さすがにまだスムーズにはいかない。けれど『さようなら』の時に比べたら上出来。
「この調子なら、短期間でマスターできそうね」
と、由美が太鼓判を押し、
「うんうん!」
私と光子は自信満々でうなずいた。
フォークソング部の練習を終え、下校は三時半。三人で石段を降りながら、大グラウンドの様子を見てみた。男子たちはまだグラウンドに残って、高井和先生と助っ人の青年団二人を相手に、キャッチボールをしている。いつもと変わらぬ男子の部活。透さんの姿は無い。話しを終えて、もう帰ったのだろうか。
「おつかれさまー」
私たちは声をかけ、先生たちに手を振った。
「おう、おつかれー!」
高井和先生が、ボールを投げながら応えると、
「ソフトボールの試合、よろしく頼むぞー!」
と、青年団の忠治兄さんが声を上げた。
「はーい!」
私たちはお茶目に手を振って返した。
結局この日、透さんと高井和先生がどんな話しをしたのか、解らなかった。グラウンドでは、何か異変が起こった様子も無なかったし、やっぱり、私の不安は気のせいだったのかもしれない。
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誰かの笑い声が外まで漏れている。軒下に迷い込んでいたセミが、私が近づいたとたん、慌てて飛び出して行った。家族以外の二足のサンダルが、玄関の真ん中に並んでいる。笑い声の主は、どうやら誠次郎おじさんのようだ。ギターを抱えたまま腰をかがめ、こっそりと居間を覗く。
「ちょっと椎子、何やってるのよ。エビみたいに腰曲げて」
後ろで、苦笑いの母が声をかけた。ソーセージかき揚げを盛った皿を抱え、
「ちょっとどいて」
と、圧力をかける。私も苦笑いで姿勢を直す。
「かき揚げのお出まし…お、椎子、おかえりー!」
父は箸をスティック代わりにして、軽快にビールビンを叩く。
「よっ、シーコちゃん、今日も大荷物だねえ」
誠次郎おじさんは、テーブルの端をやはり軽快に両手で連打した。
「お邪魔してるよー」
続けて村長代理がコップを持ち上げ、中に残っていたビールを一気に飲み干した。いったい何事だろう。三人で楽しそうに居間のテーブルを囲んでいる。野球バカトリオが揃うことは珍しいことではない。だけど、それが私の家となると、めったにあることではない。しかも、やけに明るい。前にイケイケのお姉さんが言っていた『テンションが高い』とは、きっとこんな状況をいうのだろう。
「こ、こんにちは…」
雰囲気に圧倒され、私は一声返しただけで、すごすごと台所に引っ込んだ。麦茶を飲んで一息つく。しばらくして母が空のビール瓶を持って戻ってきた。
「ねえ、今日は何かのお祝いだったっけ?」
すかさず、声をひそめて訳を探る。
「高校野球! タツノリ君の試合よ。誠次郎さんとこのテレビが調子悪くなっちゃったみたいで、急遽、うちで見ることになったんだって」
と、母は呆れ顔。しかし、その表情には明るさがにじみ出ている。母まで『テンションが高い』影響を受けているのかもしれない。
「あ、今日だったの!?」
「そう。二回目の試合、今までやってたのよ。タツノリ君の高校が勝ったから、もう、さっきまで大騒ぎ」
「なあんだ、そうだったんだ。お父さん、私にも教えてくれれば良かったのに。うーん残念」
「残念って…、とうとうあんたまで野球ファンになっちゃったの?」
母はさらに呆れた顔で、冷蔵庫から新しいビールビンを取り出す。
「そうじゃないけど、ほら、タツノリは全国の女子に人気があるって、お父さんが言ってたでしょ。だから、どんな感じかなって思ってたんだ」
「すっごくかっこ良かったわよー」
母は意地悪そうにニタリと笑った。
「えーっ、ほんと!? 私も見たかったなあ」
肩を落とし、私はコップの淵を指で撫でた。
「ガッカリすることはないでしょ。どうせ次の夏休みに見られるんだから」
「でもほら、やっぱりこういうのって、見たい時にすぐ見ないと興味が薄れちゃうじゃない」
もっともらしく私は解説する。興味がないふりをしていた時の、あの気分だったら、タツノリの試合なんて絶対に興味が無かったはず。野球に対するこんな気持ちは今まで感じたことが無い。この感情の変化には、自分でも驚いている。吉澤先輩への思いが薄まったわけではないのに、切なさは、いったいどこへ行ったのだろう。
「やれやれ、椎子までそんなふうなら、我が家のテレビも野球専用になっちゃうわねー」
ビンの栓を抜き、母はため息をついた。だけど、少しも嫌そうではない。
「お母さんだって、本当は楽しんだんでしょ」
「えっ?」
「さっきのタツノリの試合よ。いつもは野球って聞いただけで毛嫌いするのに、今日はぜんぜん違うもの」
「あら、ほほほほほ、気のせいじゃないの?」
ビールビンをお盆の乗せ、母はとぼけた。しかし、本人は気づいていない。さっきから鼻歌まじりでしゃべっているってことを。
「気のせいよ、気のせい」
そう言ったそばから、母は中条きよしの『うそ』を鼻で軽快に奏で、居間へビールを運んで行った。
1975年8月14日 13:05