© Karin Sonoyama / Sakoyan 2010
© Karin Sonoyama / Sakoyan 2010
第十五話 ずっと、五匹のままだった。その二
「透君てさ、どうして、あんな格好してたんだろう」
晩ご飯の後、父がおもむろに言った。
「え?」
後片付けの手伝いを終え、席に着きながら私は首をかしげた。テレビに気を取られていたれんげも振り向く。
「ほら、この村に透君が初めて来た時、汚い格好してただろ」
父は顎を擦りながらほおづえをついた。私の周りでその話題が出たのは初めてのことだ。あの日の透さんの格好が目に浮かび、強烈な臭いまでもが蘇った。私は思わず鼻を摘みそうになりながら、尋ねた。
「それが…、どうかしたの?」
母のように、無関心だったわけじゃない。私も、透さんの汚い格好を不思議に思っていた。しかし、なんとなくそのことには触れてはいけないような気がして、あえて今まで口にしなかった。
「いや、ただ…、今の彼の様子じゃ、別に風呂が嫌いって訳じゃなさそうだし。どうしてだろうって、ふと思ってさ」
そういって父は、また顎を擦る。その汚い格好を見ていないれんげが、
「いけないの?」
と、睨めつけた。きっと透さんの悪口を言われているとでも思ったのだろう。
「あ、べ、べつに悪いと言っているわけじゃないよ。過去にいろいろとあったみたいだから、ちょっと気になったんだ」
慌てて父は否定する。しかしれんげは、唇を真一文字に結び、さらに睨みをきかす。そういえば、透さんの生い立ちや家族のことは、ほとんど何も聞いていない。足が不自由な理由も解らない。聞いているのはホタルの思い出話くらい。きっと、れんげも他に何も聞いていないのだろう。もしも知っているなら、おしゃべり魔が黙っているはずがない。それより父はなぜ、透さんの過去にいろいろあったって言い切るのだろう。
「お父さん、透さんのこと、何か知ってるの?」
私がまた尋ねると、父はゆっくりとうなずいた。
「じつは今日、透君に会ったんだよ」
「えっ? どこで?」
驚いた様子で、今度はれんげが尋ねた。
「試験場。窓から透君の姿が見えたから、声を掛けたんだ。奥野川の傍を歩いてた」
「もう、透兄ちゃんったら、今日はお休みって言ってたくせにっ。なんで祐輔とこっそり出かけちゃうのよっ」
悔しそうに愚痴をこぼすれんげに、
「透君、一人だった」
父は首を横に振って答えた。
「この雨の中?」
私は透さんがうつむいて歩く姿を想像した。いったいこの雨の中、何をしていたんだろう…。
「本人は、散歩してただけです、って言ってたけど、どうなんだろ。傘差して散歩だなんて、やっぱり変だよな」
今日は朝から雨が降り続いている。雨足が強い夜に比べれば、昼間の雨は大したことはない。けれど、散歩するような天気ではない。しかも、透さん一人だなんて…。いつもくっついている祐輔はどうしたのだろう。確かに変だ。
「今思えば、声かけた時、何か思いつめた顔をしてたような…、気もするなあ」
父は視線を上に向けながら言った。
「はい、デザート。…それで? 声かけた後、どうしたの?」
切り分けた瓜をテーブルに出し、母が話しに加わった。
「試験場に入れてあげたんだよ。ちょうど誠ちゃんと、コーヒー飲んで休憩中だったし。で、なんとなく、元気がなさそうな感じだったから、多分、ホームシックになってるんだろうなあ、って思って、初めのうちはね、気を遣ってたんだよ。当たり障りのない、この村の話をしたりしてね。ところがだよ。試験場でホタルを飼っているって話しをしたとたん、透君、急に様子が変わっちゃってさあ」
「変わったって?」
と、私は父のようにほおづえをつき、瓜に砂糖をまぶす。つられて父も、
「なんか突然、元気になったっていうか…」
ほおづえをついたまま、砂糖のポットにもう片方の手を伸ばす。それを見て、母が「行儀悪いわよ」と顔をしかめ、父の腕にシッペをかました。
「イテッ」
その悲鳴で私は慌てて姿勢を正す。こんな時は、お腹を抱えて大笑いするれんげが、
「お父さん、なんで試験場にホタルがいるの? 試験場って、アユとアヤメの子どもしかいないんじゃないの?」
と、驚いた顔で聞いた。
「あれ? 言ってなかったっけ? ホタル、保護しているんだよ。奥野川の生き物、絶滅しないようにさ。夏休みが繰り返す前から、誠ちゃんが五匹ほど保護してたんだ。それを二人で、大切に世話しているのさ」
父は胸を張って言った。しかし母は、
「まあ、あなたたち、そんな感心なことやってたの?」
と、皮肉たっぷりに驚いてみせた。
「なんだよ、稚魚に餌をやってるだけだと思ってたのか?」
私たちが「その通り」とうなずくと、今度は父が大げさに顔をしかめた。
試験場は元々、誠次郎おじさんが一人で管理していた。試験場といっても、他所のような立派なものではない。小さないけすに小さなポンプ、それを小さなプレハブの屋根が覆っている。養殖しているのは、数十匹のアユやアヤメの稚魚。だから、管理は一人で十分足りる。なのに、時間が繰り返すようになって、そこへ父が加わった。時々、村長代理も顔を出しているから、「野球バカトリオが集まって、いったい何をしているんだか」と、特に村のお年寄りたちから呆れられている。雅一おじさんに言わせれば、「金魚を管理するほうが、よっぽど手間がかかる」らしい。母は、家でテレビにかじりついていられるよりはずっとマシ、と言っているが、本心は、お年寄りたちと同じなのだ。私は試験場の中には、夏休みが繰り返すようになってからは入ったことがない。だから父が、中でどんな事をしているのか、実はよく解らない。
昨日、由美の家に行く途中で窓から見えた父の様子は、どう見たってがんばって仕事しているふうではなかったし。今まで、父の仕事というのは、アユとアヤメにのんびりと餌を与えているだけかと、私もてっきり思っていた。
「まあとにかく、透君、興味があるみたいだから、ガラスケースで飼ってるホタル、見せてあげたんだよ。そしたら、懐かしい写真でも見るような、何とも言えない、穏やかな表情になっちゃってさあ。で、オレと誠ちゃんで、じっくりと話しを聞いてあげたってわけ」
父はそう言ったあと、スプーンは使わず、豪快に瓜にかぶりついた。果汁が口の端からこぼれ、テーブルにしたたった。母のシッペを察してか、父はそれを慌てて手で拭いた。
「そういえば、小さい時に一回だけ見たことあるんだって。だから、ホタルを見ると懐かしいって、透さん、言ってた」
私は、前に透さんがお詫びをして回った日のことを思い出した。れんげも「そうそう」と、うなずく。
「なんだ、知ってたのか…」
父は拍子抜けしたのか、つまらなそうに頭を掻いた。私はさらに付け足しす。
「それから、これは静香おばさんが言ってたんだけど、透さん、最初はずっと祐輔の家に閉じ篭ってたでしょ。それがね、遅れボタルが飛んでいるのを見てから、急に元気になったって」
「へぇー、そんなことがあったの」
と、母は、父が手で拭いた跡を布巾でぬぐう。すかさずれんげが、
「透兄ちゃんが、ここへ来た前の晩だよ」
スプーンを手に持ったまま、嬉しそうに言った。
「ああ、そうだったのか。…なるほど。それにしても、透君の家族の思い出話、感動的だよなあ」
と、母の指先を気にしながら、父がため息をついた。
「え? 家族の思い出話って?」
私とれんげは、思わず顔を見合わせた。
「聞いてないの?」
「うん。聞いたのは、ホタルを見たってことだけ…。ね、れんげ」
れんげはとたんに目を吊り上げ、二回うなずく。
「そうか…。じゃあ聞く?」
続けてうなずくれんげに、母と私も加わる。それを見て、父は意地悪そうにニタリと笑った。
父の話しでは、透さんは一人っ子で、しかも子どもの頃は母子家庭だったそうだ。お父さんは、七歳の時に亡くなったらしい。だから、家族三人でいっしょに過ごした記憶がほとんどないという。わずかな思い出の一つとして残っていたのが、ホタルを見たこと。透さんがまだ三つか四つ、お父さんが元気だった頃、どこかの川へ家族三人でホタルを見に行った。だけど、そこにはホタルが一匹もいなくて、透さんはだだをこねて泣き出した。すると、お父さんに「ホタルを探してくるから、お前は母さんといっしょに、ホタルの歌を唄って、お願いをしていなさい」って言われ、透さんはそれを信じて、何度も何度も唄った。そしたら、やがて一匹だけ現れた。透さんは、本当にお父さんがホタルを探して来てくれたと思って嬉しくなり、さらに声を上げて唄い続けた。お母さんもいっしょになって、喜んでくれた。だけど、そのホタル、実は豆電球だったらしい。お父さんが大急ぎでどこからか借りて来て、気づかれないように薮に隠れ、ホタルに見せかけ、点滅させていたのだという。透さんがそのことを知ったのが、お父さんが亡くなった後。お葬式の時、お母さんに教えてもらったという。以来、ホタルの思い出は、透さんにとって大切な宝物になったのだそうだ。
「いい話ねえ」
母がしみじみと呟き、
「だろう? おれと誠ちゃんも、聞いてて、ホロッときちゃったよ」
と、父はまたため息をこぼした。この前のホタルの大群を見て、透さんが感激した理由が解って、私は静かにうなずいた。
「お父さんが亡くなってから後のことは、あえて聞かなかったけど、たぶん、いろいろ苦労しているんだろうなあ。だから、家族の思い出が鮮明に蘇って、凄く嬉しかったんだと思う」
そう言って父は腕を組み、椅子の背もたれに体を預けると、頭の後ろに手を回した。
「きっとそうね」
と、母も胸に手をあて、静かに息を吐いた。
「引き蘢っていた透君が、ホタルを見て元気になってくれたのなら、おれたちの試験場も、ようやく人の役に立つようになったってわけだ。まあ、ホタルが逃げ出してくれたおかげでもあるけどさ」
「あらあなた、結局逃げたの?」
「今日じゃないよ。逃げたのは三週間近く前」
父は、立てた右手の人差し指を横に振って、母に答えた。だけど、
「え? じゃあなんで、今日、透さんに見せられたのよ」
母は納得していない。
「それが、ちょっと奇妙なことなんだけどね。最初から保護してるのは五匹だけなんだよ。ところが、この夏の初めに、突然、二十匹以上に増えてたんだ」
「子ども、産んだの?」
私も母と同じで、どうも納得がいかない。父の言っていることが、どういうことなのか良く解らない。
「いや、そんな様子はなかった。今までずっと、増えもしなければ減りもしない、五匹のままだった」
「変なの」
と、れんげが呟く。
「だろう? おれも誠ちゃんも変に思ってさ。何事だろうって、ケースの中を確認しようとしたんだ。そしたら、うっかり蓋を開けすぎちゃったもんだから、とたんに、ブワッと飛び出しちゃってさ。慌てて蓋、閉めたんだけど、開けっ放しにしてた窓から、ほとんど外に逃げてった」
「あらあら」
母が呆れて首をすくめる。
「で、ケースに残ってたのは、結局、元の五匹だけだったんだよ」
「じゃあ、この前の大群、その逃げたホタルだったのね」
私はようやく理解した。高井和先生の仮説どおり、時間が繰り返していても、雲や風、セミたちの鳴き声、同じはずの風景が、夏休みごとに微妙に変化する。だから、ホタルが増えても不思議ではない。とは言っても、この夏の変化は、いつもとは違うような気がする。いつもより、風が強く吹く日があった。いつもより、カエルたちの合唱がやけに賑やかな日もあった。マンガ雑誌の『KISS入門』のページに、今まで気づかなかったっていうのも、妙な気がする。キクばあちゃんの畑が豊作なのも、初めての事だ。そういえば、この時間の雨、時折、窓を叩く音が、いつもよりずっと大きい。それとも…、気のせいなのかな? よくよく考えてみたら、時間が繰り返すというあり得ない現象の中で私たちは生活しているのだ。何が起きたって不思議ではない。風や雨の微妙な変化をいちいち気にしていたら、きりがない。やっぱり気のせいなのかも。
「それより、ねえねえ、お父さん! 透兄ちゃんに、川エビは見せなかったの?」
思い出したように、れんげが父に聞いた。
「えっ? 川エビ?」
「ホタルを飼ってるんだったら、川エビだって、当然飼ってるんでしょ?」
れんげは身を乗り出し、詰め寄る。父は、
「川エビは…、ほ、保護して…、い、いないなあ」
と、とたんに焦りだす。
「もう、せっかく、透兄ちゃんが見たがってたのに。今度から、川エビもちゃんと保護しといてよね」
れんげは口をとがらせた。責められる父が、ちょっと可哀想ではあるが、
「そうよ、お父さん。奥野川の川エビ、少なくなってるんだから」
と、私もれんげの肩を持つ。だけど、
「ええっ? で、でもなあ…。今、保護しても、あんまり意味が無い気がするんだけど…」
父はあまり乗り気ではない。
「なんでっ?」
さっきよりももっと目を吊り上げ、れんげはさらに詰め寄る。
「あなた、奥野川の生き物を保護するのが仕事なら、れんげの意見は、当然受け入れるべきでしょうに!」
と、母もれんげに加勢する。チャンネル争いに続き、またしても三対一。やっぱり父に勝ち目はない。しかし父は、
「だって、ホタルは夏休みが繰り返す前に捕まえたから保護できたけどさあ、川エビの場合は、保護しても、次の夏休み、また川に戻ってしまうじゃないか」
と言って首をすくめた。
「あ…」
私たちはほとんど同時に声を出す。わずかに間を置き、母が何食わぬ顔で、
「あら、美味しいわね」
と、食べかけの瓜をスプーンですくい始めると、私とれんげも、何食わぬ顔でそれに続いた。
「ウォッホンッ」
まるで勝ち誇ったかのように咳払いを一つかまし、父の顔がニヤけた。
結局この日、透さんの汚い格好の件は、尻切れトンボに終わってしまった。私がまた、あの日の透さんを思い出したのは、布団に入ってからだった。いったい、あの格好は何だったんだろう。まさか、ホタルの話しとは関係無いと思うけど、父から聞いた透さんの生い立ちには関係があるのだろうか。そんなことを考えているうちに、外の雨音に想像力を鈍くさせられ、私はいつのまにか眠りについてしまった。
1975年8月12日 19:35