© Karin Sonoyama / Sakoyan 2010
© Karin Sonoyama / Sakoyan 2010
座布団の上で腹這いになった。朝ご飯で満たされたお腹が圧迫され、わずかに苦しい。ほおづえをつき、片方の手でページをめくった。夏休みの二週間前に買った、月刊少女マンガ誌。何度も読み返しているから、ストーリーはどれも覚えてしまった。本来なら三年も前のものなのに、相変わらず新刊の匂いがする。
湿気でページがふやけたり、綴じ込みカードがちぎれそうになっても、次の夏休みには、きちんと元に戻る。だけど、粗末には扱えない。タイムトラベルが始まって三回目の夏休みのある日、ゴミといっしょに他のマンガ雑誌を燃やしたことがあった。次の夏休み、レコード用のカラーボックスの上に置いてあるはずの、そのマンガ雑誌が消えていた。それだけではない。いっしょに燃やしたゴミ、紙切れと古着とぼろ雑巾、そのうち、半分焼け残ったぼろ雑巾は消えず、燃え尽きて灰になった紙切れと古着が、消えてしまった。さらに同じ頃、母がうっかり、磁器の小皿とガラスのコップを床に落として割ってしまった。真っ二つに割れた小皿はそのままで、鋭利な割れ方をしたコップは、危ないからって新聞紙に包み、金槌で粉々に砕いて、ゴミ焼き場の脇に放っておいた。次の夏休み、小皿は元通りになって、コップは消えた。
どうやら、原型が分らないほど粉々に壊したり、燃えてしまって灰になったものは、次の夏休みには、跡形も無く消えてしまう…と、気づいた私は、まずは母に、それからすぐに高井和先生に報告した。母は「やっぱり超常現象よ」で片付けてしまったが、事の重大さに驚いた先生は、慌てて村長代理に連絡し、住民たちを学校に集合させると、緊急の話し合いを開いて注意を呼びかけた。「そういえば…」と、変化があったことを思い出した住民たちは、次々に報告と意見を出し合った。
いつも自分の若い頃の話を、尾ひれを付けて話す元ジイこと元三郎じいさんは、育てていた観葉植物の一つをうっかり枯らしてしまった。頑固で見栄っ張りの雅一おじさんは、猫に金魚鉢をひっくり返しされてしまい、飼っていた自慢の金魚が死しんでしまった。元ジイの観葉植物も、雅一おじさんの金魚も、次の夏休みには消えていた。それまで、何をやっても次の夏休みには元に戻ると思い込み、羽目をはずしそうになっていた私たちは住民は、話し合いの結果、それなりに秩序を守って生活しようということになった。
そんなわけで、たかがマンガ雑誌といえど、粗末には扱えない。この村には図書室はあっても、本屋は無い。小学校と中学校の図書室、そこそこの蔵書はあるけど、マンガ本は当然一冊も置いていない。これは私にとって、数少ない貴重なマンガ本の一冊というわけだ。とはいっても、さすがに何度も読み返していると飽きてしまう。この頃は、外枠の広告とか、読者投稿とか、プレゼントコーナーとか、マンガ以外の文章に目を通している。それでも、もうすでに隅から隅まで読み尽くしているから、目を通さなかった文字は一字も無い。『マンガ家だより』は二回も読んじゃったし…と思ってパラパラとめくっていたら、あるページに目が止まった。
「『KISS入門』…?」
見覚えが無い。
「『初めて経験する、あなたのための予備知識。好きな男の子に、キスをしたいって思われる女の子になろう』…!」
胸が高鳴った。キスの心得が、イラスト付きで詳しく説明されている。テレビやラジオは、時間差電波という現象で、時々、数年前の番組が流れ出すことがあるけど、印刷物が変化するのは、今まで見たことがない。見落としていたのだろうか? だけど、これほど気を惹くページ、なぜ、今まで気付かなかったのだろう。
ファーストキス…、そういえば夏休みが繰り返す前、NSPのレコードを録音してくれた同級生の美香子が、
「今度の夏休み、剛史にファーストキスをプレゼントするんだ!」
って、張り切ってたっけ。あれからどうなったのだろう。高井和先生の理論どおり、正常な時間の流れに、もう一つの私たち、岩柿村の住民が本当に存在しているなら、先に剛史へ告白した美香子のことだから、今頃きっと、熱々のカップルになっているんだろうな。美香子の積極的な性格が、羨ましい。私は、どうでもいい男子には大きな態度をとれるのに、好きな人には、どうしても奥手になってしまう。キスの経験どころか、まだ、手さえ繋いだことがない。自分の性格がもどかしい。キスってどんな感じなのかな。キスしてほしい人のことを思い浮かべると、胸が熱くなってくる。
私は、無意識のうちに、机の一番下の引き出しに視線を移していた。思わず慌てて目を閉じた。切なさで、押しつぶされそうになるのは解っているのに、ずっとずっと我慢していたつもりだったのに、この前の歓迎会以来、封印を解いてしまいたい衝動にかられている。ゆっくりと目を開け、引き出しを見た。
…もう、押しつぶされたっていい。
覚悟を決め、私は引き出しを引いた。中から、薄いグリーンのノートを取り出す。交換日記になるはずだったノート。真新しさが、今でも残っている。息を深く吸い、思い切って表紙をめくる。1ページ目に大きく書いた『OK』の文字が、揺れて見えた。ゆっくりと、次のページをめくる。
「あ…」
中から、吉澤先輩が笑った。久しぶりに見る、先輩の写真。中判に引き延ばされた白黒写真。いじいじしていた私を見かね、美香子が、写真部の顧問だった田霜先生に、無理を言って撮ってもらった。印画紙いっぱいにジャージ姿の上半身が収まっている。背景から、図書室周辺で撮られているのが解る。野球部の帽子を右手に持ったまま、その手を頭の後ろにあてて、照れくさそうに笑っている。この村の時間から見れば、たった一ヶ月前の写真なのに。先輩の笑顔に、懐かしさが染み込んでいる。胸がキュンと詰まりそうになった。とたんに、思い出が溢れ出す。
吉澤先輩のことが気になりだしたのは、美香子がキッカケだった。美香子と私は、由美と光子のように、いつも一緒だった。ちょっと勝ち気な美香子と、ちょっと控えめな私。いつも美香子が先に行動し、後から私がついて行く。話し手はいつも美香子、聞き手はいつも私。性格的には正反対の二人が、なぜか不思議と気が合った。お互いにフォークが好きってことも、気が合う理由だった。その美香子が、同級生の西川剛史を好きになった。一年の二学期の半ばのことだった。
「シーコ、練習見物に付き合って!」
剛史は野球部だった。美香子に強引に誘われ、野球部の練習を、見物するはめになった。雲の多い放課後だった。校舎側の中庭から、大グラウンドへ降りる石段に、二人並んで腰掛けた。見物人は私たちだけではなかった。バックネットの裏や、グラウンドを囲む、一メートルたらずのブロック塀の後ろに、全部で十人ほどの上級生の女子たちが、すでに熱い視線を送っていた。バレー部とか、テニス部とか、卓球部とか、男子の部活は他にもあるのに、取り巻きがいるのは野球部だけだと、美香子が言った。その時は、なぜ野球部だけが人気があるのか、解らなかった。高井和先生が顧問を務める、部員十五人の小さな野球部。一年と二年の男子部員たちが、二人一組になってキャッチボールをしていた。美香子が剛史を指差した。その隣に、先輩がいた。高井和先生が相手になって、先輩のボールを受けていた。そこだけ、陽が射したように見えた。顔がはっきりと解るほど、近くにいたわけじゃない。一目惚れするほど、距離は近くはなかった。だけど、今にして思えば、その時から私の恋は始まっていた。
突然、強い風が吹いて、グラウンドの土を舞い上げた。風は土ぼこりとなって私たちの所へ押し寄せ、たまらず顔をそむけた。その時、
「おーい、取ってくれーっ!」
高井和先生の声が響いた。いつのまにか、私たちの手前に、ボールが転がっていた。先輩が、私たちの方へ駆けて来た。私は腰を起こし、ボールを拾った。こんな時は、大抵は美香子が行動するのに。美香子が「目にホコリが入った」と顔を手で覆うよりも速く、なぜかその時は、先に自然に体が動いた。先輩は、私の数メートル手前で立ち止まると、帽子をとって一礼し、グローブを差し出した。短い髪に汗がにじんで、キラキラ輝いていた。私は、先輩のグローブめがけてボールを投げようとした。すると、風がまた吹いた。見事な早業で、私のスカートをめくった。慌てて押さえたけれど、先輩のうつむいた顔で、わずかに遅かったことが解った。恥ずかしさのあまり、手元が狂った。私の投げたボールは、先輩のグローブを遥かに外れ、結局、グラウンドへ転がっていった。
「あ…、ご、ごめんなさい!」
「い、いえ。どうも、ありがとう!」
それが吉澤先輩との初めての会話だった。帽子をかぶり、もう一度軽く頭を下げ、先輩は、また、グラウンドに駆け戻って行った。ふと、上級生の取り巻きたちの、突き刺さるような視線を感じた。なぜ、野球部だけが人気があるのか、なんとなく解った。だけど、私の心は動き出し、止めることが出来なくなった。体中が熱くなるのを感じた。いつのまにか、鼓動が激しさを増していた。いつのまにか、先輩の後ろ姿を追っていた。その日から、先輩の、グローブを差し出す姿が、頭から離れなくなった。
そっと、写真を唇に近づけた。胸が高鳴る。先輩と初めて会話したあの時のように、耳まで体温が上昇していく。
我に返り、写真をノートに挟んだ。たった一枚の先輩の写真。大切に仕舞っておきたい。でも、表紙越しなら構わない。そう思い直し、正座して表紙に唇を近づけ、静かに目をつむった。
一面に銀色の草原が広がる。私は、そこに一人で佇んでいる。そよ風が優しく髪を撫でてくれる。どこからか飛んでくるシャボン玉たちが、はじけながら挨拶をしていく。ふと振り返ると、吉澤先輩が、優しい笑顔で静かに近づいて来ている。
「待たせたね」
そう言って先輩は…、先輩は私の肩をそっと抱き寄せ、そして…
「シーコ姉ちゃん、何やってんの?」
「えっ!?」
振り返ると、仁王立ちのれんげがいた。
第十一話 虫嫌いは父譲り。その一
1975年8月6日 9:50