© Karin Sonoyama / Sakoyan 2010
© Karin Sonoyama / Sakoyan 2010
第七話 お弁当、どこで食べるのだろう。
母に頼まれた洗い物を終え、台所から自分の部屋に戻る途中、さわやかな空気を感じ、私は薄暗い廊下で立ち止まった。開けっ放しの玄関が眩しい。雨上がり、庭の露草に残った雨粒たちが、真珠のように輝いている。ひんやりしていた朝の空気が、さっと何処かへ引いていったような感覚が残っている。壁にかかった温度計が、これからみるみる上昇していく。
「そういえば、気のせい…って」
ふと、昨日、透さんがこぼした言葉を思い出した。いったい「気のせい」って、何のことだろう。ちょっと気になる。でも「気のせい」なのだから、きっと大したことがないのだろう。
「…まあ、いいか」
手を組んで、爪先立ちで思いっきり伸びをした。すると、
「シーコ姉ちゃん、どいて!」
ようやく支度を終えたれんげから、ふいに背中を押された。弁当箱が入ったポシェットを下げ、お気に入りの帽子をかぶっている。
「お母さん、もう行っちゃったよ」
「なあんだ。せっかく途中まで、いっしょに行こうと思ってたのに」
「ぐずぐずしてるからよ」
「もう、お母さんたら、急いで届けなくってもいいじゃない」
「回覧板、遅くなっちゃったら、後の人に迷惑かかるでしょうに」
「そりゃそうだけどさ」
れんげは、わざと口をとがらせた。
さっき、透さんのプロフィールと、歓迎会の詳細が書かれた回覧板、母が福江おばさんのところへ持って行こうとした時、れんげは慌てて支度を始めた。別に母といっしょに歩きたいからではない。やっと透さんに村案内ができるから、うれしくて、じっとしていられないのだ。村の隅から隅まで案内するんだって、朝から張り切っている。今朝のラジオ体操、たぶん祐輔に無理矢理引っ張ってこられたと思うけど、透さんも参加したそうで、その時、祐輔の家に九時半に集合ってことになったらしい。戻ってくるなり、約束の時間までまだ余裕があるというのに、れんげは、ずっとそわそわしっぱなしで落ち着きが無い。
「じゃあ、出かけてくるね!」
「はいはい、いってらっしゃい。気をつけてね」
れんげが外に飛び出したとたん、白い帽子が光を放ったように感じ、私は目を細めながら見送った。
ゴロベエ先生も高井和先生も、透さんの元気な姿を見て喜んだ、昨日のお詫び行脚。その帰り道で、祐輔が「明日は村案内だからね」と、強引に透さんのスケジュールを決めてしまった。私は、透さんの足のことを気遣い、「歩き回るのは、ほどほどにしなさい」って、祐輔に釘を刺したけれど、透さんは「足のことなら大丈夫。歩いたり、走ったりするのは問題無いんだ。それに、この村のことをもっと知りたいし」って、祐輔のわがままを快く受け入れた。一応、私も悪ガキたちの誘いを受けたのだけど、「用事があるから」と、みえみえの言い訳で断った。案内したい気持ちはもちろんあるし、昨日は雨だったから、れんげの具合が心配で付いて行った。だけど、今日はそうはいかない。悪ガキたちの主催する行事に、さすがに中学生の私が割り込んでは、みっともない。透さんも、本当は面倒くさいのに、きっと無理をして付き合ってあげるつもりなのだろう。村案内といっても、悪ガキたちにとってはほとんど遠足気分。いくら歩くのは問題無いからって、あっちこっち連れ回されたんじゃ、ちょっと可哀想だ。
人口は百人足らず、わずか三十八世帯の小さな村。しかし、面積は意外に広い。人口が少ないこの村に学校ができたのも、校舎とグランド二つ分の広い土地が空いていたかららしい。試したことはないけれど、タイムトラベル域の縁に沿って一周するなら、たぶん、半日くらいは歩かなきゃいけない。大きな道は、メイン道路のたった一本しかない。けれど、小さな道は多く、複雑に絡み合っている。そこを子供たちの足に合わせて、隅から隅まで歩き回れば、かなりの時間がかかるだろう。
お弁当、どこで食べるのか聞いていないけど、奥野森辺りで、悪ガキたちに囲まれ、なんやかんやと質問攻めに遭いながら、おにぎりを頬張る透さんの姿が頭に浮かんだ。次第に可笑しくなって、顔がほころんでくる。
玄関の外から、れんげの姿が見えなくなると、近くで、せっかちなセミたちが少し早めに鳴き始めた。これを合図に、じわじわと暑くなっていく。
「さてと、練習するか」
もうすぐ歓迎会。その前日は、ふくれもち作りの準備で登校日もお休み。今週は何かと忙しい。今日と明日は、ギターの練習をたっぷりして、明後日は、ふくれもち作りに備え、体をじっくり休めよう。一週間の予定がスムーズに立てられると、気分が良い。
一昨日の父たちのミーティング、もしもあと一日、透さんが籠っていたら、歓迎会は延期しようか、という話が出ていたそうだ。予定通り開かれることになって良かった。あまり遅くなると、歓迎会って雰囲気は、半減しちゃうだろうな。そんなことを考えながら、私は背中で手を組み、もう一度伸びをした。
1975年7月28日 9:12