第十四話 こんな影響なら、大いに歓迎したい。その三
第十四話 こんな影響なら、大いに歓迎したい。その三
「ただいまー」
レコードの代わりに瓜二つ入ったバックを肩からおろし、玄関をくぐった。きれいに並べられた草履たちの横で、れんげの靴が八の字になって列を乱している。
「まったく、しょうがないんだから…」
愚痴をこぼしながら、ギターケースを床に置き、私のと一緒にれんげの靴を揃えた。
「お帰り」
いかにも機嫌が悪いのをアピールしているみたいに、膨れっ面でれんげが出迎える。
「ちよっと、れんげ、ちゃんと揃えなさいよ、靴」
「あ、そろってなかった? ごめんごめん」
無愛想に謝りながら、口をとがらす。こんな時は、お茶目に舌を出してごまかすはずなのに、よほど機嫌が悪いらしい。
「まったく」
苦笑いしながら私は小さく息を吐く。機嫌が悪い理由を解っているから、あまりグチグチ言うと可哀想だけど、あからさまなれんげの不機嫌さに、どうしても意地悪気味になってしまう。
「あれ? 何それ?」
バックのふくらみを指し、膨れっ面のまま、れんげは話しをそらした。
「キクばあちゃんの瓜」
「なあんだ、もらってきたんだ」
「こらこら、なんだはないでしょ!」
れんげは腕を組み、バッグを睨む。その態度を見て、私はつい、
「あんた、キクばあちゃんがせっかくあげるっていうのを、断ったんだって? 失礼よ」
また愚痴ってしまった。
「だって、食べたくないんだもん!」
れんげの頬がさらに膨れる。
「あんたが食べたくなくても、お父さんとお母さんは食べるでしょうに。私だって大好物だし」
本当はれんげも大好きなくせに、意地でも食べないつもりなのだろう。さらにムクれて、
「ふんっ」
ソッポを向いた。しかし、すぐに横目で私を睨み、
「ばあちゃん、他に何か言ってた?」
と勘ぐった。
「えっ? な、何かって?」
私はとっさにシラを切る。透さんがなっちゃんの写真に一目惚れしたんだって? なんて話すと、それこそれんげの怒りは頂点に達しそうな雰囲気。ここはしらばっくれるのが賢明だ。
「言ってなきゃ、いい」
「何なの?」
「別に…、何でもない」
「もう、変なこと言ってないで、とにかく、ほら、お母さんに渡して」
呆れるふりをして、バッグをれんげに押し付ける。れんげは大げさにため息をつき、
「はいはい!」
と、しぶしぶ受け取る。
「はいは、一回でしょ」
「はいはいはいっ!」
がに股で重そうにバッグをぶら下げ、声を荒げる。やれやれ、れんげの機嫌はしばらくは直りそうにない。
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私の予想は見事に外れ、れんげの機嫌はたちまち直った。晩ご飯の後、れんげに透さんから電話があったからだ。
「透兄ちゃんたら『今日はごめんね』、だって」
私の部屋に入ってくるなり、れんげは嬉しそうに言った。
「何がごめん、なの?」
私は吹き出しそうになるのをこらえ、Gマイナーをゆっくりと奏でながら聞いた。不機嫌真っ最中に、あんなに勘ぐっていたのに、結局は機嫌が悪かった訳を自らばらそうとしている。
「あっ、何でもない、何でもない」
れんげは慌てて腕を振り、交差させる。
「とにかく、今日は大変だったんだよ」
「ふーん、…何が?」
抱えていたギターを机の横に置き、少しの間、れんげの相手をしてあげることにした。ギターの練習に集中したかったけれど、せっかく直った機嫌を損ねては、後が面倒なことになりそうだ。
「透兄ちゃんに、小学校を案内したんだけどさあ」
白々しく、れんげは話題を変える。
「小学校って、あそこは立ち入り禁止でしょうに」
「そうだけど、もう他に案内するとこ、なかったんだもん」
れんげはチロリと舌を出す。私は呆れて首をすくめる。一応、小学校を含め、タイムトラベル域の近くは立ち入り禁止になっているが、強制的なものではない。それより、まだ村案内していたっていうのが、呆れてしまう。
「それに、透兄ちゃんも行ってみたいって言ってたし、明代姉ちゃんも大丈夫だって…」
「明代姉さんもいっしょだったの?」
「うん。帰りにキクちゃん商店に寄るちょっと前までいっしょだったんだ」
れんげによると、お昼過ぎに学校へ向かっていた透さんと悪ガキたちは、途中でたまたま明代姉さんに会った。「これから小学校の探検に行くんだ!」と胸を張った祐輔に、明代姉さんは、「透さんにもしものことがあったら大変だし、あんたたちだけじゃ危なっかしいから、私もついて行ってあげる」と、半ば強引に一行に加わった。そんなわけで、異質な組み合わせによる案内で始まった「小学校の探検」ツアーは、初めのうちは何事も無く進行し、タイムトラベル域の内側にある校舎の半分を、できるだけ境界線辺りに近づかないように、明代姉さんと悪ガキたちは透さんを案内していった。だけどそのうち祐輔がふざけだし、タイムトラベル域の境界線を飛び越えた。つられて、透さんが跨いでしまった。境界線といっても、目に見える線が引かれているわけではない。透さんは知らずに跨いでしまった。
二人はたちまち、越える直前の元の場所に戻された。祐輔はすぐに「ふわふわする!」と、はしゃいだ。その感覚以外に人体に影響が無いことは解っていたから、この時、明代姉さんは別に慌てはしなかった。透さんも同じ感覚になっているはず、みんなもそう思っていた。しかし、彼の場合は違っていた。事態は大事になってしまった。これまでに境界線を越えようとした人はたくさんいる。村の住民の大半が試した。だけど結果は同じだった。元の場所に戻され、誰もがふわふわとした感覚に陥った。実は何人かのゲストも試したことがあるけど、やっぱり同じだった。ゲストがタイムトラベル域を越えられるのは、結局はバスが消える時だけだった。だから、透さんも同じような感覚になっているのだろうと、みんなが思ったのは当然のことだった。
元の場所に戻されたとたん、透さんは呆然とした表情で立ちすくみ、動かなくなった。明代姉さんが異変に気づき、声をかけた。しかし、返事がない。慌ててれんげがシャツを掴み、揺すった。それでも動かない。今度は祐輔と寛太が揺すった。「あっ」一声出して透さんがわずかによろけた。思わず明代姉さんが腕をつかみ支えた。透さんの息が急速に荒くなった。真っ青な顔で額に汗をかき、きょろきょろと周りを見回した。「透さん! 大丈夫っ!?」再び明代姉さんが声をかけると、しきりに瞬きをしながら、額の汗を拭った。透さんが正気を取り戻すのに、それから数分掛かった。それまで、頭の中が真っ白になって、自分が誰なのかさえ解らなくなっていたらしい。
「そんな大変なことになってたのっ!?」
「もうビックリしちゃったよ。いちじてきにキオクソウシツっていうのになってたんだって」
「記憶喪失って…透さんがそう言ったの?」
「うん」
「本当に大丈夫だったの?」
「うん。明代姉ちゃんが、念のためにゴロベエ先生に看てもらったほうがいいって言ったんだけど、透兄ちゃん、もう何ともないから大丈夫だって」
「そう、だったらいいけど…」
タイムトラベル域を越えようとして、今まで、そんな症状になった人は一人もいない。本当に大丈夫なのだろうか。透さんが初めてこの村にやって来た日の、いかにも不健康そうな青白い顔が頭に浮かんだ。
「まあとにかく、そういうことで、大変だったわけだよ」
腕組みをしながら、れんげはうなずく。
「ちょっと、人ごとみたいに何言ってるの。そもそも、あんたたちが立ち入り禁止区域なんか案内するのがいけなんいでしょうに」
「えへへ」
れんげは、また舌を出した。都合が悪くなると、いつもこの顔でごまかす。
「ゴロベエ先生にバレたら、カミナリ、落とされちゃうよ」
「やっぱり、そうだよねえ。明代姉ちゃんがゴロベエ先生の名前を口にした時、祐輔も寛太も、すっごい慌ててたし」
「まったく、しょうがないなあ。明代姉さんが付いて行って正解だったわね。あんたたちだけだったら、きっと、もっと大変な事態になってたかもよ」
苦笑いの私に、れんげは声を潜め、右手の人差し指を立てて口に押しあてた。
「シーコ姉ちゃん、今話したことは、ぜーんぶナイショだからね」
「解ってるわよ。でも、明日もどこかへ行くんでしょ? もう、小学校はよしなさい」
私はその人差し指を摘み、軽く揺さぶる。しかし、れんげは頬をふくらませ、ムクれた顔をした。
「明日は雨だから、家で、おとなしくしていなきゃいけないんだって。大した雨じゃないのに…」
「祐輔の家にも行かないの?」
「うん。さっき電話で『たまにはお休みしよう』だってー」
と、すねるれんげだが、そんなに残念そうではない。透さんから電話をもらったってことのほうが、よほど嬉しいのだろう。
「あ、もしかしたら、れんげの頭痛のことで気を遣ったのかもよ」
「…頭痛のこと、教えてないのに」
「たぶん、祐輔から聞いたのよ」
「そうかなあ」
「そうよ」
何の根拠も無いが、透さんなら、そのくらいの気を遣いそうな気がする。れんげも納得したのだろう。腕を組み、考え込むそぶりをして見せたけれど、すぐに二回うなずき、
「そうだね!」
と、その顔を思いっきりニヤけさせた。
1975年8月11日 17:58