© Karin Sonoyama / Sakoyan 2010
© Karin Sonoyama / Sakoyan 2010
第十四話 こんな影響なら、大いに歓迎したい。その一
部屋の窓から外へ顔を出す。ついさっきまで、庭の木の葉の上で、天気雨の細かい粒たちが小さな虹を作っていた。もうすっかり消えている。手を伸ばし、粒の当りを確かめる。見た目にも、雨はだいぶ上がりかけている。けれど、まだわずかに腕に当たる。上空をいくつもの真っ白な雲が通り過ぎ、次第にその数を減らしていく。いつもなら、午後一時頃には雨は上がる。あと十分。
八月の中旬以降は、やたらと雨が多い。台風が二つも発生する。幸い、直撃することはないが、雨と曇りを繰り返し、すっきりと晴れる日は、わずかしかない。本格的な雨は明日から降り始める。今日の雨は一時的なもの。これを除けば、今日一日の天気はおおむね晴れ。お昼以降は貴重な青空が広がる。
雲たちの流れを、ぼんやりと目で追う。ふと、タイムトラベル現象の仮説が思い浮かんだ。あの雲たちは、いったい、タイムトラベル域の内側にあるのだろうか。それとも、外側にあるのだろうか。内側にあるのなら、あの雲たちはこの岩柿村と同じ時間の中に浮かんでいることになる。だけど外側なら、違う時間に浮かんでいる雲の残像ってことになる。
高井和先生の説では、この村は目に見えない殻に包まれているらしい。先生は、その殻を『タイムトラベル域』と名付けた。タイムトラベル域の内側と外側では、別々の時間が流れているらしい。だから、殻の内側に閉じ込められている私たちは、直接その外には出ることができない。殻の形が実際にはどんなふうなのかは解らないが、地上の範囲は円状であることが、先生の地道な調査で確認されている。空の範囲は、この村に飛行機なんてある訳がないから、確かめるすべはないけれど、先生は、地上の範囲と比較するなら、せいぜい高い雲と低い雲が浮かんでいる中間辺りではないかと推測している。さらに「仮に範囲が宇宙まで達しているとしても、月や太陽までタイムトラベル域の内側にあるとは到底考えられない。だから、月や太陽は外側にあって、私たちが見ているものは、違う時間の月と太陽の残像ということになる」と言っている。正確には『残像』ではなくて『残像のようなもの』らしい。私たちは太陽の熱や外から吹いてくる風を、肌で直接感じ取ることができるから、『残像のようなもの』であって、『残像』ではない、というのがその理由。しかし正直に言えば、私にはこの『残像のようなもの』というのが、どうもいまいちピンとこない。
残像のように、外側の風景がぼやけて見えている訳ではない。はっきりとそこに存在しているように見える。なのに、私たちは決してそこへ行くことができないし、触れることもできない。中山峠から見える隣村の一部も、手を伸ばせば届きそうな木や草も、殻の外に見えている風景は、全て『残像のようなもの』なのだ。唯一、この村から外へ出ることができるあのバスが、外の風景を『残像のようなもの』という仮説を証明してくれている、と先生は言っている。しかし、バスに乗って移動できるのはゲストだけで、私たちには効果がない。あるゲストが未来へ帰る時、「兄ちゃんを探しに行ってくる」と、村長代理がいっしょにバスに乗ったことがあった。しかし、消えたのはバスとゲストだけで、跡にはしりもちをついた村長代理だけが残されていた。私たちはバスに乗ることができても、結局はこの村から外へ出ることはできないのだ。この辺の事情も、私がいまいちピンとこない理由なのかもしれない。
雲の一つが、次第に小さくなって消えた。…もしかして、私たちの方が残像なのではないだろうか。この部屋も、外の景色も、そして私も、もしかしたら、ゲストが見ている残像なのではないだろうか。そんな思いが頭をよぎった。正常な時間に存在するもうひとつの私たち、もしもその残像だとしたら、今の私たちは偽物っていうことになる。頬を撫で、感触を確かめながら首を振る。いやいや、まさかそんなはずはない。私は確かにここに存在しているのだから。
「ふーっ…」
大きく息を吐く。空とは対照的に、もやのような雲が頭の中に次第に広がっていく。一人で仮説のことを考えるには、私の能力では無理がある。伸びをして、雲をきれいさっぱり追い払う。
「さてと…、そろそろ出かけるか」
今から由美の家に行く。一時半に集合することになっている。由美の部屋へおじゃまするのは、幼稚園の時以来。懐かしいな。
選んでおいたレコードをバッグに入れ、ギターケースといっしょに抱え、支度する。この前、二人に何枚か貸してあげたけど、まだ聞きたいレコードがあったみたいだから、手土産代わりに持っていく。これから、フォークソング部の三人で、『さようなら』の練習を少しだけしたあと、レコードを聞きながら時間を過ごす。ようするに、この前のおしゃべりの続きってわけだ。今日は由美の好きな人を聞き出そうと、光子と密かに企んでいる。光子はだいたいの見当はついているようだけど、由美の口からはまだ聞いていないらしい。由美って、いったい誰が好きなんだろう。きっと、マーク・レスターや友和似のカッコイイ男子なんだろうな。…ん? うちの学校に、そんな男子、いたっけ? 少なくとも、二年に一人もいないのは断言できる。
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ジリジリと焼けるような日差しが、天気雨の名残をあっというまに蒸発させている。ギターとレコードが重いせいか、少し歩いただけで汗が首筋を滑り出す。道路の端ギリギリを歩き、できるだけ木影があるところを通っていく。ときどき、ほっとするような微風が追いかけて来て、歩く速度を緩やかにさせる。
キクちゃん商店の前を通りかかり、中の様子を伺った。相変わらずお客さんはいない。
「ばあちゃん…」
開けっ放しのガラス戸から声をかける。返事が無い。お店の一歩手前まで近づき、奥を見る。いつもキクばあちゃんが座っている辺りに、座布団がぽつんと置いてある。だけど気配は無い。もう一度声をかけると、代わりに、軒下の風鈴が涼しい音を奏でた。裏側の戸が開いている。キクばあちゃん、きっと、裏の畑の手入れでもしているのだろう。
由美の家は公民館を通り過ぎ、養殖試験場の手前で分かれている小道を上がっていく。メイン道路を挟んで、中学校と対称の位置にある。
道路から小道へ入りながら、傍の試験場を見た。窓の奥に父の横向きの姿があった。何か作業をしているようにも見えるし、何もしていないようにも見える。ギターケースを地面に置き、立ち止まって手を小さく振ってみた。父はすぐに気がつき、窓へ寄る。
「おう!」
右手を挙げて応えると、誠次郎おじさんが、横からひょいと顔を出した。
「よー、シーコちゃん!」
「こんにちは!」
「えらい大荷物だなあ。引っ越しでもするのかい」
誠次郎おじさんは軽い冗談を言い放つ。なぜか父が照れくさそうに笑った。
「由美ちゃんとこ行くの?」
「そう」
「光子はもう行っちゃったよ」
「ほんと!?」
「うん、五分くらい前」
「早ーい! 急がなきゃ…」
私がペコリとお辞儀すると、誠次郎おじさんは歯を思いっきり見せて笑って返した。
「じゃあね、お父さん」
「おう!」
父がまた右手を挙げる。続けて誠次郎おじさんも手を振った。大荷物を抱えて再び歩き出す。数歩進んで振り返った。やっぱり誠次郎おじさんは、歯を思いっきり見せて笑った。今日は月曜日。プロ野球はお休みで、巨人が負ける試合を見なくて済むから、誠次郎おじさんの機嫌はすこぶる良い。こみ上げてきそうな笑いをこらえ、私は由美の家へ足を速めた。
1975年8月11日 12:50