© Karin Sonoyama / Sakoyan 2010
© Karin Sonoyama / Sakoyan 2010
一時間ほど過ぎたところで、ほとんど解明できた。出だしはGマイナー、その次はF、一つ飛ばしてまたGマイナー、コード進行はこのパターンの繰り返しだってことが分かった。意外と短時間で解明できたから、私って、本当は音楽のセンスがあるのかも…なんて勘違いしそうになったけど、飛ばした一つがどうしても分からない。ギターコード集に載っている、半分以上のコードを試したけど、どれも音が合わない。だけど、大半を解明できたのは上出来。次の部活まで時間はたっぷりある。慌てる必要もない。今日はここまでにしておこう。
部屋の角にギターを立て掛け、背伸びをした。力みすぎたのか、左腕が少し張っている。いつのまにか汗もだいぶかいている。網戸に虫がへばりついていないのを確認し、顔を近づけ、外の空気に触れる。今夜は無風で蒸し暑い。だけど、部屋の中より外がわずかに涼しく感じる。ふと、遠くで小さな光が舞っているのに気が付いた。遅れボタルだ。奥野川には、台風の影響で天気が悪くなる八月中旬頃まで、時々姿を見せるホタルたちが生息している。そういえば、夜はレコードばかり聞いていて、このところ、外の様子はまったく気に留めていなかったっけ。部屋を暗くして、久しぶりにじっくり眺めてみようかな。そう思って明かりを消そうとした時、れんげが、手のひらを怪獣のように拡げながら、開けっ放しのドアから姿を見せた。
「おっもしろかったよーっ」
「何が?」
「ババ対テツノツメ!」
「ああ、プロレスね」
「ババがね、こんなことされて、顔が血だらけになっちゃってさあ、もう、大変だったんだから!」
手のひらに力を込め、れんげは自分の顔をつかむ真似をしてみせた。
「ひゃー、怖い。あんた、そんなもの見て、よく平気だね」
「まあね」
あたりまえのように、れんげは胸を張る。
「で、馬場は勝ったの?」
「ううん、けっきょく引き分けになっちゃった。二人ともリングの外に出ちゃって」
「へえー、馬場って意外と弱いのね」
「というより、テツノツメが強すぎるんだけどね。…あ、テツノツメっていうのは技の名前だからね。ほんとうはフリッツ・ホン・エリックっていうレスラーなんだ」
と、また胸を張った。
「アハハ、それくらい知ってるわよ」
「あれ、そうなの?」
「だって、有名だもん」
「シーコ姉ちゃん、プロレス見ないくせに、よく知ってるね」
「そりゃあー、いくら私だって! 他にも知ってるわよ。ビル・ロビンソンとか、デストロイヤーとか、それから…」
れんげは忘れているだろうけど、私が小学五年生の頃までは、時代劇やドラマ、クイズ番組など、大人向きの番組を家族全員で見ていた。プロレスもその一つ。どれもべつに好きで見ていた訳ではなかったけれど、あの頃は他に見るものがなかったから、時代劇の決め台詞やクイズ番組の司会者の口癖なんかを、冗談でよくれんげと真似し合っていたっけ。プロレスの場合は、ジャイアント馬場や他の日本人のレスラーはもちろん、外人レスラーなのに、なぜか日本人の味方をしていたビル・ロビンソンやデストロイヤーの名前は自然に覚えた。さらに、人間風車とか、四の字固めとか、彼らの十八番の技の名前まで覚えてる。それから…、ロープの上からムササビのようにジャンプする、覆面のレスラーもいたっけ。名前は…そうそう、カラス、ミルマス・カラスだ。
「…それから、ミルマス・カラスとか!」
お返しとばかりに、今度は私が胸を張った。だけど、れんげの顔が勝ち誇ったようにニヤけた。
「それ、ミルマス・カラス、じゃなくて、ミル・マスカラスだからね」
「えっ? ア、ハハハ…、そ、そうなの」
ううっ、このところ、れんげに打ちのめされてばかり。姉の立場が危うくなりそうだ。まったく! 時々プロレス技を掛け合ってふざけている男子たちならともかく、なんで女子の私が、興味の無いプロレスごときの話題で、れんげに打ちのめされなきゃならないの? ちょっと腑に落ちないけれど、まあこんな時は、
「それより、ねえ、ホタル見ない?」
話題を変えるのが一番だ。
「あ、遅れボタル? 見る見る!」
「暗くして見ようか。そのほうが見やすいから」
部屋の明かりを消し、網戸を全開にして、二人で窓に並んだ。
「わあっ!」
思わず揃って声が出た。網戸越しではハッキリと解らなかったけど、キクちゃん商店と祐輔の家の明かりの中間辺りで、二十ほどの光の群れが、優雅に舞っている。今まで、これほどの数、見たことが無い。なんてきれいなんだろう。ゲスト専用のバスの、あの不思議な光の粒もきれいだけど、夜のホタルのほうが断然きれいで素敵! れんげも私も、言葉を忘れてしばらくの間見入っていたら、ふと、祐輔の家の窓明かりに、影が浮かんだ。
「あ、お兄ちゃん!? 」
れんげは思わず、窓から身を乗り出し、
「ほらっ、絶対に二十一世紀のお兄ちゃんだよ!」
まだ姿を見たことがないはずなのに、そうだと決めつけた。確かに影はそれっぽい。祐輔らしい小さな影と並んでいる。さらにれんげは、興奮気味に手を振った。
「ちょっと、れんげっ、危ないわよ。それに、手を振っても、向こうからじゃ暗くて解らないよ」
「あ…、そうか」
やがて小さな影が動いて、明かりが消えた。
「もしかして向こうも、ホタル、見ているのかもね」
私はれんげの肩に触れ、静かに言った。
「お兄ちゃん、元気になったのかな」
「そうかもね」
「明日、会えるといいなあ。そしたら、頭痛も吹っ飛ぶよ!」
「大丈夫よ、きっと…」
なんだかそんな気がした。
彼が祐輔の家に閉じ篭って今日で六日目。ゲストが籠るのは珍しいことではないけれど、一週間も続いたことはなかったし、歓迎会も近づいている。だから、今日も肩を落として帰って来たれんげを見て、さすがに私も心配になっていた。もちろん、影だけでは詳しいことは解らない。しかしその様子が、なんとなく穏やかな気持ちでホタルを見ているように感じ、私はほっと息をついた。すると、
「椎子、お風呂、早く入りなさい」
下から母の声が響いた。
「あ、はーい」
慌てて明かりをつけると、まぶしさで目がくらみそうになった。
「さて、さっぱりしてくるか!」
手を組んで私が伸びをすると、れんげが前に回って、
「そういえば、お母さんに言われてたんだ。お姉ちゃんに、早くお風呂に入るように言っといてって」
と、頭を掻きながら舌を出した。
第五話 お風呂の後だと大変らしい。その二
1975年7月26日 21:05