© Karin Sonoyama / Sakoyan 2010
© Karin Sonoyama / Sakoyan 2010
第六話 瓜を食べながら虜になる。その一
ほおづえをついて、しばらく目を閉じてみる。こんな日は詩でも書こうと、朝ご飯を済ませてすぐに机に向かったものの、一行書いただけで、続きの言葉がなかなか浮かんでこない。目を開け、ノートを閉じて、私は窓に顔を向けた。外は朝から湿っている。キクちゃん商店よりもずっと向こうのバス停で、いつも悠然な態度で停車しているバスが、雨のためか、お尻を向けて寂しそうに見える。
雨音は聞こえない、静かな霧雨の日曜日。朝から出かける人は、ほとんどいない。バスの点検を日課にしている運転手の小松さんでさえ、今日はお休みと決めている。なのにれんげは、さっきから慌ただしい。お気に入りの赤のスカートだの、ピンクの靴下だの、あれこれ催促し、「お母さんはれんげの召使いじゃないのよ!」と、母に怒られている。今日も祐輔の家に出かけるらしい。今度こそ、二十一世紀のお兄ちゃんに会えるって、張り切っている。昨日の私の予感が当たるといいけど。
「練習…するか」
いつもなら、雨の日は大きな音を立てないようにしている。だけど、今日は大丈夫のようだ。れんげの様子も、晴れた日と変わらない。
私はギターを手に取り、Gマイナーを押さえた。スリーフィンガーに挑戦してみる。親指と人差し指と中指を使って、清行兄さんから教わった通りに弾く。
「タンタタタタタタ、タンタタタタタタ」
声に出して拍子をとる。指が思うように動かず追いつかない。今度はFを押さえて弾いてみる。とたんに音がかすれた。右手に集中しているせいか、左手の、弦を押さえている人差し指が浮いてしまっている。イメージはつかんでいるつもりだけど、結構難しい。GマイナーとFを交互に押さえながら、スローモーション並みのスピードで、スリーフィンガーを何度か繰り返した。滑らかに弾けるようになるまで、まだまだ先は長い。
今度はヘッドフォンを着けてカセットを聴く。前回の登校日に借りておいた音楽室のヘッドフォン、着けてみるとずしりと重い。再生ボタンを押す。『さようなら』のイントロに集中し、出だしのギターの音を探る。
「タンタタタタタ…?、タンタタタタタン?」
スリーフィンガーのようだけど、微妙に違っているようにも聞こえる。巻き戻してもう一度確認しようとしたとき、
「シーコ姉ちゃん! シーコ姉ちゃん!」
れんげがいつの間にか横に立って、私の肩を揺らした。
「あれ、アンタ、まだいたの?」
「お兄ちゃんっ!」
れんげは、私がヘッドフォンを外す前に声を上げた。
「お、お兄ちゃん? お兄ちゃんって…、ゲストの?」
息を一つついて、れんげは首を縦に振った。
「ゲストがどうしたの?」
「来たっ!」
「来たって…ここに?」
今度は、雨の日には見せたことの無い満面の笑みで、大きく二回うなずいた。
「こ、この前はどうも」
彼は申し訳なさそうに頭を下げた。
「いえ、そんな…」
つられて私もおじぎを返す。
父の背中に隠れていたれんげは、ひょいと顔を出し、悪ガキたちといっしょに玄関に立っている彼を睨んだ。まるで不審者を見るように警戒している。本当は嬉しくてたまらないくせに、照れ隠しでそういう態度をとっている。
彼は、初日に公民館で着替えたものと同じ、白のシャツと黒のズボンをはいている。ボサボサだった髪は、後で小さく束ね、少しはスッキリして見える。だけど、だいぶ伸びた無精髭が、初日の時の野暮ったさを漂わせている。
「まあ、ここじゃなんだから」
と、父が居間に上がるように勧めた。頭を掻き、彼は迷っていた様子だったが、背中を祐輔と寛太に強引に押され、よろけそうになりながら靴を脱いだ。
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「まあ、どうしましょ。お化粧してないわ」
普段からスッピンの母は、座布団を差し出し、大げさに照れた。彼は座布団の横に膝をつくと、
「あの…、僕、足が悪くて、正座ができないんです。失礼な座り方しても、いいでしょうか」
小さな声で言った。
「まあ、そうだったの…。どうぞ、楽にして」
母は慌てて右手で促す。ぎこちない歩き方は、そういう訳だったのか。ズボンの上からでは、不自由そうには見えないけれど、いったい、何があったのだろう。
うつむいたまま、彼は静かに膝を崩して座った。祐輔と寛太は付き添うように両脇に座り、私たちも向かい合わせで腰を下ろした。わずかに気まずい空気が流れる中で、私は彼の顔を見た。良くなったとまでは言えないけれど、顔色の悪さは、幾分薄れたような気がする。
「それにしても、元気になって良かった!」
父がぎこちない笑顔で切り出した。
「いろいろと…、すみません」
「そんなに気にしないで。ここは、ほら、特殊な村だから。…もう聞いた?」
そう言って母が麦茶を差し出すと、祐輔が「話したもんね」と、胸を張った。
「なかなか、まだ信じられなくって…」
彼はうつむき加減だった視線を、さらに下に落として言った。
「そりゃそうだよねえ」
もっともらしく、父は腕を組む。
「でも、このままでは、皆さんにご迷惑をかけるばかりだし…。だから、あの…、まずはお詫びをしようと思って…」
「あらまあ、そんなに気を遣わなくったって、いいのよー、ほほほほ」
母は、恥ずかしいほどの甲高い声で笑った。いつかの格好良いゲストの時に比べれば、だいぶトーンが下がっているけれど、今まで無関心だったくせに、この変わりようといったら。やれやれ、開いた口が塞がらない。
「いえ、この前、こちらのお嬢さんにさんに、いろいろとご迷惑をおかけしたみたいで。…どうもすみませんでした」
彼が私を見て、また謝ったものだから、
「そんな、迷惑なんて全然かかってないです」
私は慌てて手を横に振った。
「そうよ。この村はね、何も無い所だけど、ゲストをもてなすことが唯一の取り柄なの。だから、旅行した気分でいてくれれば、私たちも気が楽なんだから」
母がそう言うと、彼はやっぱり、申し訳なさそうに頭を下げた。
「あ、名前、まだ聞いてなかったね」
父が思い出して膝をトンと打つと、
「あらやだ、そういえば私たちだって、まだ名乗ってなかったわよね。ほほほほほ」
母がまた甲高い声で笑った。
まずは私たち家族から名乗った後、彼は一通り、自己紹介を始めた。その間、前もって聞いていた祐輔と寛太は、自慢げに何度も鼻を人差し指で擦っていた。
ゲストの名前は、小堀透さん。二十一才。独身。未来では、東京で一人暮らしをしているという。凄い! 東京に住んでいるってだけで尊敬してしまう。職業はフリーター。デザインの勉強をしながら、仕事をしているらしい。
「フリーター…?」
聞いたことのない職業に、みんなきょとんとしてしまった。祐輔たちも、仕事については聞いていなかったようだ。
「あ、あの…、フリーターっていうのは、なんていうか…アルバイトみたいなもの、です…」
透さんは頭をかきながら説明した。私には、なんとなく謙遜しているように思えた。デザインの勉強をしているくらいだから、もしかして、このだらしない着こなし方も、未来の最新ファッションなのかもしれない。
「とにかく、どんな仕事でも、勉強しながらっていうのは、立派なことよー」
と母は感心し、私もうなずく。
「ところで、ちょっと聞きたいことがあるんだけど…」
さっきから妙にそわそわしていた父が、唐突に話を切り替えてきた。この態度、なんか、悪い予感がする。
「もしかして、未来で戦争が起こって、日本が大変なことになっていない?」
やっぱり。予感が的中してしまった。
「ちょっと、アナタ!」
母は眉間にシワを寄せ、睨みつけた。私の視線も母に加勢する。せっかく和やかになった空気を、父は暗い妄想をぶりかえして、自ら壊そうとしている。
「戦争…ですか?」
案の定、透さんは困惑している。
「起こってないの? 第三次世界大戦」
「世界大戦? は、はい。ないです。とりあえず、日本は平和ですけど…」
きっと「このおっさんは、いったい何を言い出すんだ?」なんてことを、思っているに違いない。
「ご、ごめんなさいねー。もう、この人ったら、変なこと言ってー。そうよねえ、戦争なんて、起こるわけないじゃないよねえ、ほほほほほっ!」
母は笑ったが、その声はあきらかに怒っている。しかし正直に言えば、父たちの妄想だと分かっていたものの、内心、私も多少は心配だった。これで一安心。祐輔と寛太も同じだったようで、二人は胸を撫で下ろして息を吐いた。
「ちょっと失礼して…誠ちゃんに電話して、安心させなきゃ」
父が腰を上げると、母は呆れてため息をついた。
「あの、僕も…そろそろ失礼します」
今度は透さんが、腰を浮かした。
「あら、もう? ゆっくりしていけばいいのに」
「これから、キクばあちゃんとこに行かなきゃいけないんだよ。それからゴロベエ先生とこと、高井和先生のとこにも」
代わりに祐輔が言った。まるで、透さんのマネージャーのような口ぶりに、私はうっかり吹き出しそうになった。
透さんがゆっくりと立ち上がると、祐輔と寛太も慌てて立ち上がった。どうやら、初日に迷惑をかけた人たちへのお詫び行脚、ということらしい。
「いっしょに行く!」
今まで大人しくしていたれんげが、名残り惜しそうに手を挙げた。不審者を見る目付きから、いつのまにか、憧れる人への眼差しに変わっている。
「大丈夫?」
れんげのおでこに、私は手を添えた。
「平気!」
「椎子、付いて行ってあげなさい」
母の指示に、私は静かにうなずいた。
れんげの体の中には、人工の細い管が通っている。頭に溜まった水を、お腹に流すためだ。れんげは一年生の時、頭に水が溜まる難病にかかり、手術を受けた。成功率が半分以下で、父と母も覚悟を決めた大手術。幸いなことに手術は成功し、その後、奇跡的な回復を見せ、予定よりも早く退院できた。完治した訳ではないが、溜まった水を管で抜くことで、体調もほとんど問題ない。激しい運動も出来るようになった。だけど雨の日になると、気圧のせいなのか、後遺症なのか、わずかに頭痛がするらしい。夏休みが繰り返すようになって、時々、ゴロベエ先生に診てもらっているが、先生は専門外だから、詳しいことは解らないらしい。しかし、命に関わるものではないのは確かとのこと。とはいえ、これはれんげの自己申告ではあるけれど、前に一度だけ、大きな音が引き金になって、瞬間的な激痛に見舞われ、気を失いそうになったことがあったらしい。だから私たち家族は、雨の日は大事をとって、大きな音をたてないように注意している。でも、今日のれんげは、とても調子が良いようだ。
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柔らかい雨音の中を、私たちは集団登校のように列を作ってキクちゃん商店へ向かっている。私の家からキクちゃん商店はすぐそこ。案内するほどの場所ではない。けれどれんげは、何かせずにはいられないのだろう。先頭に立って、
「そっちがキクちゃん商店、あっちが奥野川」
と、得意げに指差した。透さんが元気になってくれたことが、嬉しくてたまらないようだ。
ゆっくりと歩きながら、透さんは前方に見える奥野川を眺め、呟いた。
「奥野川には、ホタルが棲んでいるんだね」
思った通り、透さんもホタルを見ていたんだな。予想がピタリと当たって、私はちょっと驚いた。れんげもすぐに気がついて、
「お兄ちゃん、やっぱり昨日、ホタル見てたんだね!」
と、嬉しそうに傘を回した。
「えっ!? どうして知ってるの」
「だって、見えたもん。れんげ、お兄ちゃんに手を振ったんだよ」
「ぼくに? い、いつ?」
「実は、私たちも自宅の窓からホタルを見てたんです。そしたらちょうど、祐輔の家の窓に、透さんの影が見えたものだから、妹が思わず手を振ったんですよ」
私が事情を話すと、
「ご、ごめんなさい。全然気づかなかった…」
透さんは、また頭を下げた。
「いえ、こっちの明かりは消してたんです。この子、そそっかしいから、一つのことに夢中になると、周りが見えなくなるんです」
「えへへー」
ニタリと、れんげは笑った。
「なあんだ、それじゃあ気づくわけないよ」
そう言って祐輔が呆れ、寛太も無言でうなずく。するとれんげは、またクルクルと傘を回しながら、祐輔と寛太に向かって舌を出して応えた。それを見ていた透さんが、静かに微笑んだ。
1975年7月27日 9:48