© Karin Sonoyama / Sakoyan 2010
© Karin Sonoyama / Sakoyan 2010
第六話 瓜を食べながら虜になる。その二
「ホタル、初めて見たんですか?」
私は透さんに尋ねた。東京の川はとても汚いと聞いたことがある。きっとホタルは棲んでいないのだろう。
「初めてってわけじゃないけど、あんなにたくさんのホタルは、初めて。と言っても、前に見たのは一度きりなんだ。それも、たったの1匹。もうずーっと前のことだから、昨日見た時、とても懐かしくて」
「東京で?」
「ううん、どこかの田舎でね。ホタルを見たのは鮮明に覚えてるのに、その場所がどこなのか、まったく覚えていないんだ。なにしろ僕が三つか四つの頃の大昔。…あ、この村の時間では、未来ってことになる…か。ちょっと混乱しそうだね」
透さんは傘を傾け、想い出を辿るかのように空を見た。
「うん、こんらんしてきた!」
と、祐輔が、れんげのように傘を回すと、無口の寛太も真似をした。
透さんがホタルを見たのを三歳だとすると、十八年前。二〇〇九年の十八年前って…、一九九一年ってことになる。偶然にもイケイケお姉さんの時代と同じ。だけど私たちにとっては、やっぱり遥か未来のこと。解っていても、不思議な気分になってしまう。
ゲストの大半は、この村の風景に懐かしさを感じるのか、よく、思い出に浸ることがある。それは私たちにとって、つい数年前の過去だったり、ずっと先の未来だったりする。もうだいぶ慣れたとはいえ、時間のことを考えると、やっぱり混乱してしまう。
「ところで、あの…、椎子さん」
急に言いにくそうな様子で、透さんは私に顔を向けた。
「はい?」
と、私も顔を向ける。目が合い、ドキッとした。もの凄く真剣な眼差しで、私を見つめている。
「どうしたの?」
前を歩いていた悪ガキたちが振り向く。
「あ、あの…」
言葉を詰まらせ、一瞬、立ち止まった透さんは、
「いや、何でもないです。やっぱり、気のせい…」
と、視線を背けた。
「気のせい…ですか?」
首を傾げながら、私も視線を道路傍に移した。胸がわずかに高鳴っている。私は顔が赤くなりやすい。恋をしているわけでもないのに、見つめられただけで赤くなっては、恥ずかしい。悟られないように、そっと息を吸った。と、その時突然、二匹のアオガエルが、すぐ傍の草の上を順番にジャンプした。私は驚いて、無意識のうちに一歩、不格好に飛び退き、よろめいた。
「もう、弱虫なんだから。カエルぐらいで驚かないでよ」
れんげが傘を回しながら呆れた。
「しょうがねーなあ、シーコ姉ちゃんは。アッハハハハハ!」
祐輔と寛太が笑い出すと、私も自分の小心ぶりに呆れ、つい吹き出してしまった。透さんもつられたのか、初めて白い歯を見せ、一緒に笑った。
雨の日のお店には、お客さんはほとんど訪れない。だから、売り場の明かりは消えている。こんな時の店主は、大抵、奥の部屋でテレビを見ている。
「キクばあちゃーん!」
れんげが真っ先に中に入って声をかけると、
「あーい」
いつもの昔言葉を返し、キクばあちゃんは薄紫のワンピース姿で現れた。
いつもだったら、すぐに売り場の明かりを点けるのに、透さんの登場にはよほど驚いた様子で、
「あれっ!?」
と、しばらく固まったまま、スイッチを点けるのを忘れていた。やがて、ようやく明かりを点けたキクばあちゃんは、それはそれは感激し、元気になって良かったと、何度もうなずきながら透さんの両腕をつかんで放さず、瓜を食べていってと、強引に店の奥に引きずり込んだ。私たちもぞろぞろと後に続き、お店の裏の小さな畑で収穫した瓜を、結局みんなで食べることになった。
「こんなに賑やかなのは、何年ぶりかねえ」
台所で、ばあちゃんは目を細め、黄金色の三つの瓜を、それぞれ半分ずつに切り分けた。
「手伝うよ」
私が食器棚を指差すと、
「あい!」
キクばあちゃんは嬉しそうにうなずいた。きっと、なっちゃんのことを思い出しているのだろう。
なっちゃんこと夏子姉さんは、岩柿村から二十キロほど離れた町に住む、キクばあちゃんのハトコ。誰からも「なっちゃん」と呼ばれて慕われていた。この村の時間で見れば、透さんと同世代の二十二歳。私から見ても、うっとりするほどの美人。キクばあちゃんが若い頃に美人だったという伝説が広まったのは、なっちゃんの美貌が起因している。
なっちゃんは高校生の時から、毎年、夏休みになるとキクばあちゃんのところへ泊まりがけで遊びに来ていた。身寄りの少ないキクばあちゃんは、年が離れていることもあって、本当の孫のように可愛がった。村の住民たちにも大人気で、なっちゃんがお店番を手伝う時には、村の男子たちは言うまでもなく、隣村の男子たちまでもが、一日に何度も駄菓子を買いに足を運んでいたほど。その頃のキクちゃん商店は、それはそれは大変な賑わいをみせていた。時間が繰り返すようになって、お店はもうずっと、静かでいる。
「はい、おまたせー」
瓜を乗せたお皿を、私が次々と居間のテーブルに並べていく。その皿に、れんげがスプーンを添えていくと、祐輔と寛太が囃し立てるように手を叩いた。
「さあさあ、食べようかねえ」
砂糖ポットを抱えたキクばあちゃんが、どっこいしょと席に着く。すると、透さんは突然頭を下げた。
「あの…、この前は、ご迷惑をおかけしました」
「あれ、そんなもん、全然気にしかくてもいいのに」
なんだか透さんは謝ってばかりいる。そういえば初日も、ずっと謝っていたっけ。
「それより、早う食べて」
「は、はい、いただきます…」
しかし、どこから食べていいのか解らないようで、スプーンを手に取ったまま戸惑っている。
「瓜は初めてかい?」
「はい…」
透さんは小さな声でうなずいた。するとれんげが、
「じゃあ、やってあげる!」
と、種をスプーンで丹念に取り除き、残った瓜の器に砂糖をたっぷりとまぶした。
「砂糖といっしょに、すくって食べるんだよ」
れんげに促され、遠慮がちにフォークで削った瓜の果肉を口に運ぶと、透さんは「おいしい」と微笑んだ。祐輔と寛太が、また手を叩いて囃し立てた。
瓜を食べながら、透さんはキクばあちゃんに自己紹介を始めた。といっても、ほとんどは祐輔とれんげが口を挟み、二人の説明合戦になった。その間、キクばあちゃんはとても嬉しそうに聞いていた。なんだか、ちょっとした歓迎会ムードになった。雨の日は、いつもひっそりとしているキクちゃん商店。今日は久しぶりに賑やかな時間が流れている。
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「じゃあ、透さんの仕事はデザイナーなのかい?」
瓜を食べ終わる頃、キクばあちゃんの口から、外見とは不釣り合いな言葉が飛び出した。意外なことだが、キクばあちゃんは大のテレビ好きで、村の誰よりも流行に敏感だったりする。私たちが未来からの訪問者を「お客さん」ではなく「ゲスト」と呼ぶようになったのは、実はキクばあちゃんのアイデア。村の話し合いで「お客さん」に決まりかけていたとき、「ゲストにしたらどうかね。高橋圭三も、お客さんを紹介するときに『今週のゲストはだれそれ』って言うてるよ」と、ひいきにしている番組の司会者の台詞を例に出し、みんなを納得させた。
「いえ、いろいろと事情があって、今はデザインの勉強をしながら、フリーターをやっているんです」
「ほおー、リータァー…」
キクばあちゃんはもっともらしくうなずき、聞き間違えた。流行に敏感なはずなのに、横文字はよく聞き間違えたり言い間違えたりする。こんなところがあるから、流行り言葉を口にするハイカラなキクばあちゃんには、まったく嫌味がない。
「やだあ、ばあちゃん、リーターじゃなくって、フリーターよ」
私が訂正すると、悪ガキたちが吹き出した。
「あら、フリーターね、ハッハッハッ。まあどっちにしろ、ターが付いてるから、透さんは立派だよ」
キクばあちゃんは、チータという愛称で呼ばれている演歌歌手の大ファン。そのくせ、いつも「チーター」と間違って呼んでいる。大ファンのチータ…いや、チーターに呼び方が似たフリーターの仕事をしている透さんは、きっと立派な人だと思い込んでいる。かなり強引な思い込みではあるけれど、少なくとも、透さんは悪い人には見えない。それにしても、フリーターって、いったいどんな仕事なんだろう。私たちもまだ詳しくは聞いていない。と、思っていたら、
「正確には派遣って言って…、ようするにアルバイトみたいなもので、登録している会社から、いろんな仕事を与えられるんです」
透さんは、頭を掻きながら説明した。
「ほおー、じゃあ透さんは、その会社に通っているのかい?」
「いえ、仕事がある場合は、会社からケータイに連絡が入るんです」
そういって、ジーパンの後ろのポケットから、あの機械を取り出した。
「それって、ラジオじゃないんですか?」
「何言ってんだよ、シーコ姉ちゃん。これ、電話なんだぜ!」
祐輔が自慢げに腕を組んだ。
「電話っ!?」
私とれんげは、思わず身を乗り出してケータイに顔を近づけた。寛太もまだ聞いていなかったようで、目を見開いて、口をパクパクさせている。私以上に機械音痴のキクばあちゃんも、さすがに驚いている。ラジオだと思ってたものが、まさか、電話だなんて!
「本当は携帯電話って言うんです。それを略して携帯って呼ばれていたんですけど、いつのまにか訛って、ケータイって呼ばれるようになったんです。今は機能しないから、通話はできないけど」
透さんはケータイの由来を説明すると、また頭を掻いて申し訳なさそうにした。
「あの、ここでは、未来の機械は機能しないんです」
すかさず私が事情を話す。
「そうみたいだね。祐輔君から事情は聞きました。最初はバッテリー切れかなと思って…」
と言いかけ、透さんは急にハッとなって私を見た。
「お礼を言うのをすっかり忘れてた。ケータイ、椎子さんとれんげちゃんが、届けてくれたんだってね。どうもありがとう」
「そんな、お礼だなんて。ついでに届けただけですから。ね、れんげ」
嬉しそうに、れんげはうなずく。
「それに、最初はキクばあちゃんが預かってくれていたの」
「そうだったんですか。キクさん、どうもありがとうございました」
もう何回目か分からないけど、透さんがまたまた頭を下げると、
「あらぁ、キクさんって。キクばあちゃんでいいよぉ。ハッハッハッハッ」
ばあちゃんは思いっきり照れた。
この前、ゴロベエ先生が言ったように、よほど神経の細かい…いや、よほど繊細な人なのかもしれない。透さんは、もうずっと謝ってばかりいる。それとも、頭を掻いたり、下げたりするのが癖なのかしら。とにかく、今はそんなことより、ケータイ!
「これ、いったいどうやって電話かけるんですか? コードもないのに…」
その仕組みがまったく理解できない私は、不思議でならない。
「電波で繋がるから、コードは不要なんだ。だから、電波の届く場所なら、どこからでもかけられるんだよ。かける時はこうやって開いて」
蓋を開けるように開いて、透さんはそれを耳に当ててみせた。
「トランシーバー…みたいなもの?」
しかし、アンテナらしきものは付いていない。
「ちょっと違うかな。ケータイはトランシーバーと違って、たとえば日本のどこかの公園を散歩しながら、ニューヨークにも、パリにも、ロンドンにも、世界中どこにでも電話がかけられるんだ」
「世界中!!」
ニヤケている祐輔を除き、みんな声を揃えて驚いた。
さらにその後、透さんはケータイの機能のいくつかを説明し、私たちをもっと驚かせた。相手の番号をいちいち回さなくても、電話をかけることができるっていうのも凄いけど、一番驚いたのは、ほとんどの人がケータイを持ち歩いているということ。なんと小学生までもが、自分専用のケータイを持っているという。しかも特定の人には、どんなに長電話しても、ほとんど電話代はかからないっていうから羨ましい。ちょっとした電話をかける時でさえ、親の目を気にしなきゃいけない私たちにとって、やっぱり二十一世紀って、凄すぎる! フリーターのことはすっかり忘れ、私たちはケータイにすっかり心を奪われてしまった。
ほどなくして、お店の電話に静香おばさんから祐輔へ連絡が入った。先にゴロベエ先生のところに電話を入れた静香おばさんは、二人がまだ顔を出していなかったものだから、キクちゃん商店で、祐輔が何か悪さをしでかしているんじゃないかと思ったようだ。
「悪さなんかするわけねーだろ。昼飯? あと三十分じゃ、先生のとこまでまわりきれないよ。だって、ばあちゃんの瓜、ごちそうになってたんだからさあ。もうちょっと待っててよ」
祐輔の口調は、またしてもマネージャー気取り。どうやら、お昼が近いから、早く切り上げなさい、ってことらしい。電話を切って、やれやれとため息をつく祐輔を見て、こんな時にケータイが使えたら、さぞかし便利だろうな、と私はつくづく思った。
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「後片付けはいいから、早う行っといで」
というキクばあちゃんの好意に甘え、私たちは食べ散らかしのテーブルはそのままに、急いでゴロベエ先生と高井和先生のところへ向かうことになった。まずはゴロベエ先生。
「透兄ちゃん、あそこ!」
外へ出てすぐ、れんげが中学校よりもずっと手前にある教員住宅を指した。二つの住まいを一つに繋げた、長屋風造りの教員住宅。それが仲良く二棟並んでいる。そこの一つにゴロベエ先生は住んでいる。元々、この村の住民ではなかったゴロベエ先生は、一棟が空き家になっていたのを、同じ状況だった小松さんと分け合って、仮住まいとして使用している。その次は中学校の宿直室を自宅代わりにしている高井和先生。高井和先生もこの村の住人ではなかった。前は、隣村の下宿先から学校へ通っていた。本来なら、自分が教員住宅に住む権利があったのを、中学校の宿直室でじゅうぶんだからって、ゴロベエ先生と小松さんに譲ってあげたのだ。
大異変が起こったあの時、夏休み最後の日ということもあって、クラブ活動で登校していた生徒たちも、大半の先生たちも、翌日の始業式に備えて早めに帰宅していた。教員住宅に住んでいる四人の先生の内、二人の先生がたまたま用事があってこの村を出ていた。高井和先生は、やり残しの仕事を片付けるために、一人で職員室に残っていた。ゴロベエ先生は、隣町の診療室からたまたま往診に来ていた。小松さんは乗客ゼロのバスを休ませ、停留所で一休みしていた。そのバスにモアイ村長は駆け込み、バスとともに消えてしまった。その瞬間に時間が後戻りして、この村から出ていた人はいなくなり、残っていた人だけが時間に取り残された。そんなわけで、三人は岩柿村の新たな住人となった。
教員住宅を挟んで、ここから中学校までゆるやかな上り坂が続く。歩きの時間だけでも合計で十分近くはかかる。今日は夜まで降り続く静かな雨の中を、私たちは急ぎ足気味に歩いた。その間、悪ガキたちの傘は、せわしそうに回り続けた。いつのまにか、透さんと私の傘も、悪ガキたちの傘につられ、歩くスピードとは対照的にゆっくりと回っていた。
1975年7月27日 10:37