© Karin Sonoyama / Sakoyan 2010
© Karin Sonoyama / Sakoyan 2010
第十一話 虫嫌いは父譲り。その二
「ノートに顔くっつけて、新しいおまじない?」
怪しいものを見る目つきで、私の顔を観察している。
「ちょっと、れんげ! 人の部屋に入る時はノックしてよね!」
「だって、ドア、始めっから開いてたじゃん」
「開いてても、入る前には一声かけるものなの! で、なんか用?」
私はわざと不機嫌な顔をして誤摩化した。
「これから、かぶと虫探しに行くんだけど、シーコ姉ちゃんも行く?」
「かぶと虫?」
「透兄ちゃん、本物のかぶと虫、見たことないんだって。そしたら祐輔が『じゃあ、奥野森に探しに行こう』って」
「ふーん。透さんも一緒に行くの?」
「もちろん!」
奥野森は岩柿村バス停の真逆、富美蔵おじさんの畑と竹林を越えたところにある。村の奥にあるから奥野森。樫やクヌギの木が茂る小さな森。
「どうする?」
暇はたっぷりあるけれど、虫を見ても平気でいられる度胸は、ない。
「うーん…、パス」
「やっぱりね。シーコ姉ちゃん、虫が嫌いだもんね」
「分ってるんだったら、いちいち誘わないの!」
「何よ、ヒマそうだったから誘ってあげたのに」
「余計なお世話ですぅ」
「後でやっぱり行けば良かったって、文句言わないでよね」
「言わない言わない! さっさと行っといで」
「フン! じゃあれんげ、楽しい楽しい虫探しに出かけてこよーっと!」
バタバタと、嫌味ったらしい大きな足音をたてて、れんげは階段を降りて行った。その発言と行動には、大人と子供が同居しているかのようで、どちらが素なのか、時々、大いに困惑させられるときがある。
「あ、そうだ…」
気がかりなことがあって、部屋の窓から顔を出す。すると、玄関を一旦出たと思ったれんげが、慌てて家に引っ込んだ。どうやら忘れ物のようだ。帽子だの、水筒だの、ハンカチだのと、母の慌ただしい声が聞こえる。いつも生意気なことばかり言ってはいても、やっぱりまだ子供だな。こんなところがあるから、憎めない。
再び表に飛び出したれんげに、私は声をかけた。
「かぶと虫、後でちゃんと逃がさなきゃだめよ」
捕まえて持ち帰ったりしたら、すぐに死んじゃうかもしれない。そしたら、次の夏休みには、多分その虫はいなくなってしまう。たとえ虫一匹でも、捕まえた後は逃がしてあげるのが、この村のルール。
「分ってる! べぇーだ!」
れんげは振り向いて、いつかの和則のような、憎々しいあっかんべーを放った。「こらぁっ! まったくもう…。それから、あんた、あんまり無理しちゃだめよ!」
口うるさいと思ったのか、今度は振り向きもしないで、れんげは、返事代わりに右手を振って駆けて行った。私たちのやり取りを聞いていたのだろう。下から、母の笑い声が聞こえた。
れんげは幼稚園の時から、祐輔たちと遊んでいる。だから、おはじきよりもビー玉、ママゴトよりも秘密基地作りが好きな女の子になってしまった。昆虫が好きなのもそのせい。たまには、女の子らしいことをしたら? と苦言を呈しても、聞く耳を持たない。やがて、小学生の女の子に大人気の、フィンガー5のアキラよりも、高校の男子たちに大ウケしている、あのねのねの伸郎が好きになった。母は「別にいいじゃない。れんげらしくて」と、まったく問題にしていない。だけど、時々意味も分からず、大人も舌を巻く難しい言葉を言ったりするから、行く末が恐ろしい。そのうち、鶴光のオールナイト・ニッポンを聞き始めるんじゃないかと、心配になってくる。
お昼過ぎ、れんげは手と口の回りを真っ赤に染めて帰って来た。お昼ご飯の前に帰る予定が、かなりの時間がかかってしまい、途中でお腹がすいて、奥野森に群生する山いちごを、みんなで、ごはん代わりにたらふく食べたそうだ。
「かぶと虫、見つかった?」
「ううん…。でも、おもしろかったよ」
よほど疲れていたのか、れんげはそっけなく返し、コップいっぱいに注いだ麦茶を一気に飲み干すと、
「お昼ねする」
と、座布団を枕がわりに居間で横になり、母から起こされる夕方まで熟睡した。
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晩ご飯までに元気は復活し、「ご飯の時に、勘弁してよ」というデリケートな私を無視して、れんげは虫探しの話をまくしたてた。
「かぶと虫かあ。昔、あの森にたくさんいたなあ」
途中、父がしみじみと回想したせいで、虫探しの話は調子づき、食事している間、ずっと続いてしまった。
かぶと虫探しには克子姉さんも参加したらしい。虫探しご一行が克子姉さんの家の前を通りかかった時、たまたま打ち水をしていた克子姉さんを、透さんが誘ったのだという。れんげ、祐輔、寛太、透さん、克子姉さんの5人で探すことになったかぶと虫は、結局一匹も見つからなかったらしい。父によると、夜明け前に探さないと、ほとんど見つけるのが難しいようだ。
「だったら、最初から教えといてよね!」
れんげに理不尽な言いがかりをつけられ、父は頭を掻きながら「ごめん」と謝った。
かぶと虫は見つからなかったものの、そのかわり、カミキリ虫三匹と、小さなクワガタ一匹を見つけ、透さんはどちらもやっぱり初めて見た昆虫で、
「凄い! 凄い!」
を連発し、大満足だったそうだ。だけど、木の高いところにいたクワガタを見つけた時、祐輔が透さんに肩車してもらって素手で捕まえたとたんに、大きなムカデが現れて、もう少しで襲われそうになったという。想像しただけで、私は背筋が凍ってしまった。
「お姉ちゃん、来なくて正解だったよ。来てたら、ぜったい、腰抜かしてたよね」
カチンとくることをれんげに言われ、
「ちょっと、決めつけないでよ。いくらなんでも、腰抜かすわけないでしょ」
私は強がった。
「ぜーったい、抜かしてたってば! だって、こーんっなに大きかったんだよっ!」
両手を四十センチほど広げ、れんげは大きさを示した。
「バーカ、そんな大きなムカデ、いるわけないでしょ」
「本当だもんっ! 本当にこれくらいだったもんっ!」
れんげはさらに幅を拡げ、息巻いた。
「はいはい」
呆れた私は、これ以上対抗するのを諦めた。
「椎子ったら、父さんと同じで、小さな虫をみただけでも大騒ぎだもんねえ。行かないで正解だったかもよ」
母は私に、いや、遠回しに、父に対して嫌味を言った。
「お、俺が苦手なのは、ゲジゲジだけだぞ!」
「何言ってんの。あなた、前に小さな蜘蛛が足によじ登ってきたって、うろたえたことがあったじゃないの」
「あ、あん時はなあ…、き、急にだなあ…」
父は言い返せず、言葉を濁す。そんなんで、よく外を歩き回れるものだ。
「はー、虫が苦手なのは、父さん譲りってわけね」
私が溜め息をつくと、れんげは私と父を指差して、
「弱虫」
と言い放った。
虫探しに参加しなかったのは、確かに正解だったかも。れんげの言う通り、もしも大ムカデを実際に見てたら、本当に腰を抜かしていたかもしれない。ぞわぞわと動いている、無数のムカデの足を想像しただけで、鳥肌が立ってしまう。とにかく私は、虫、とくに足の多い生き物が大っ嫌いだ!
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「椎子、お風呂まだでしょ」
母が一階から声をかけた。
「あ、はーい」
気がつくと、もう十一時過ぎ。ギターの練習に夢中になってしまった。扇風機を止めると、外のカエルたちの合唱が、網戸を通り抜けて、今日はやけに賑やかに聞こえてくる。
「シーコ姉ちゃん、ちょっといい?」
すでにお風呂から上がっていたれんげが、性格とは正反対の、可愛いいちご柄のパジャマ姿で部屋に入ってきた。
「まだ起きてたの?」
「だって、ぜんぜん眠くならないんだもん」
「そういえば、何時間も昼寝してたからねー」
「それより、ねえ、シーコ姉ちゃん」
「何?」
「今夜、一時過ぎまで起きてる?」
「なんで?」
「ラジオ、録音してくれない?」
れんげは、六〇分のカセットテープを差し出した。ラベルの『フォーク特集』の文字の上に、いつのまにか赤い汚い字で『ジャイアントかめんのうた』って書き足している。前に私があげたやつだ。れんげに頼まれて、テレビにラジカセをくっつけて録音してあげたけど、お母さんの声が途中で入ってしまったからって、次の週にもう一度、録音を頼まれたテープ。これに一時から録音って、まさか、鶴光? …いや、今日は違うか。あ、もしかして…
「もしかして、あのねのね?」
「うん!」
いつだったか、あのねのねのラジオ、水曜日の深夜一時からやってたよって、教えたことがあったっけ。和則によれば、あのねのねもエッチな唄とか唄うらしいけど、鶴光よりはずっとマシらしい。それでもまだれんげには、高校生好みの『あのねのね』はちょっと早いような気がする。とは言っても、私もあのねのねについて、あまりよく知らない。知っているのは、れんげがときどき口ずさむ『空飛ぶ円盤の唄』や『赤とんぼの唄』といったヘンテコな唄を唄うフォークバンドってだけ。以前聞いたラジオも、夜中に勉強していた時にたまたま流れていた放送を、ほとんど聞き流していたにすぎない。
今じゃ、フォークソング部には欠かせなくなったNSPだって、『便所虫』という可笑しな唄を唄ってる。あのねのねも、NSPみたいなフォークグループなのかも。だけど、彼らの番組は、今は放送さけてはいない。
「あのねのねの番組、もう、やってないよ」
私が中一の時に放送していた番組は、中二になって、突然お休みになった。
「でも、時間差電波で放送されるかもしれないでしょ」
「うーん、かもしれないけど…」
「透兄ちゃんに聞かせてあげたいんだ」
「あのねのねを?」
「うん。奥野森から返ってくる時、空飛ぶ円盤の唄を教えてあげたら、すっごく面白がって『もっと聞いてみたいな』って。だから、おねがいっ!」
いつも勝ち気なれんげが、珍しく頭を下げた。
「そんなことなら、かまわないけど、あんまり期待できないわよ。時間差電波って気まぐれだから。それに、テープ、あんたのお気に入りでしょ? 録音しちゃったら、この夏いっぱいは、元に戻んないよ」
「いいの!」
「はいはい。ちゃんと録音しといてあげるから、早く寝なさい。明日はラジオ体操でしょ? 寝坊するよ!」
「ほーい!」
れんげは、嬉しそうにガッツポーズで自分の部屋へ戻った。
どうやられんげは、透さんのことが、好きで好きでたまらないようだ。祐輔と寛太も、本当のお兄さんのように慕っている。なのに岩柿村の女性陣ときたら、もう愛想笑いを浮かべている。大人の女性で唯一、ずっとお気に入りでいるのは、キクばあちゃんだけだ。
歓迎会の質問コーナーで、あれだけ私たちを熱狂させたてくれたのに、特におばさんたちの透さんへの関心度は、潮が引いて行くように下がってしまった。もちろん、透さんがいい人だっていうのは、みんな解っているから、ゲストをもてなす気持ちに変わりはない。だけど、やっぱり、格好良いゲストのようにはいかない。母たちにしてみれば、野暮ったくてしなびた格好が、やはり、近づき難い最大の理由なのだろう。幸いなのは、透さん自信は、そんなに気にしていない様子だってこと。放っておかれたほうが、きっと気が楽なのかもしれない。悪ガキたちには、毎日のように構われているけれど、たぶん透さんは、子どもが好きなのだろう。れんげたちも、そこを敏感に感じ取っているから、子供たちに大人気なのかもしれない。キクばあちゃんに気に入られている理由は、さっぱり解らないけど。
お風呂に入ろうとした時、脱衣場と洗濯機置き場がいっしょになっている廊下の窓が、半分ほど空いているのに気がついた。
「だれよ、開けっ放しにしたの」
愚痴をこぼし、慌てて閉める。誰かに覗かれるからって訳じゃない。窓の外は裏山に続く崖になっているから、覗かれることはない。それよりも、こんな時間に窓を開けっ放しじゃ、カナブンが入ってくる!
私の虫嫌いは、父譲りだけが原因ではない。幼稚園の時、男の子に意地悪されて、お気に入りの新しい靴の中に、ヤスデを入れられたことがあった。知らずに靴を履いた私は、その異様な感触に悲鳴を上げた。ヤスデも、ダンゴムシも、平気で掴んでいたのに、それ以来、足の多い生き物が嫌いになった。さらに、小学一年生の時、突然飛んできたカナブンに、顔にへばりつかれたことがあった。なかなか取れずに私は泣き出した。泣きながらも自分で強引に剥がした。すると、とげとげの足が引っかかって、おでこから血が出た。それまで足の多い生き物だけが苦手だった私は、昆虫までもが苦手になった。今じゃ、網戸にカナブンが突っ込んで来るたびに、心臓が縮む想いをしている。
ふと、天井の灯りのそばを、何かが通ったような気配を感じて顔を上げた。カナブン? 一瞬、そう思った。しかしそれは、カナブンを遥かに越えるおぞましいものだった。
「ぎゃーーーーーっ!」
本当に腰が抜けるかと思った。ちょっと大袈裟だけど、村中に響き渡るほどの悲鳴を上げてしまった。それほど、私の目には、この世のものとは思えない、不気味な生き物に見えた。なんと、天井の隅に、私の手のひらほどもある大きな家蜘蛛が、白くて丸い卵の袋をかかえて、居座っていたのだ。
1975年8月6日 10:12