© Karin Sonoyama / Sakoyan 2010
© Karin Sonoyama / Sakoyan 2010
第十七話 お約束のスローボール。その二
にわかに空が暗くなり、雲が唸り声を上げ出した。もうすぐ夕立が降り始める。もっと早くに終わって解散する予定だったけれど、試合がかなり長引いてしまった。高井和先生が腕時計を見ながら、応援団たちに講堂へ避難するように指示すると、とたんに大粒の雨がグラウンドの土を叩き始めた。私たちソフトボールメンバーも大急ぎで用具を片付け、猛ダッシュで講堂に駆け込んだ。
雨は十五分ほどで止むから、みんなでしばらく雨宿りすることになった。自然とふくれもち部のメンバーで輪になった。キクばあちゃん以外は、みんな揃って後ろに手をつき、上半身を斜めに支え、思いっきり足を投げ出した。こもった暑い空気とは対照的に、講堂の床はひんやりとして気持ちがいい。ゴロベエ先生と元ジイが、前もって用意しておいてくれた差し入れの缶ジュースで、乾いた喉を潤しながら、いくつかのグループに分かれて、ガヤガヤと試合を振り返った。透さんは小学生たちに囲まれ、最後の打席のことをからかわれている。「ごめん」と苦笑いで頭を下げているけれど、それほど気にしてはいないようだ。Aチームの大人たちも、肩をもんだり、腕をのばしたり、体をほぐしながら談笑している。
「いいゲームだったなあ」
克子姉さんが、天井を見上げて言った。
「あい、ナイスゲームだったねえ」
キクばあちゃんが、目を細めてうなずいた。
「わあ、ばあちゃん、ナイスゲームって…、ソフトボールのこと解るの?」
明代姉さんが体を起こし、驚いた。
「あい。テレビで巨人の試合、時々見てるからねえ」
「ひーっ、キクばあちゃんも、巨人ファン!?」
光子が、ほぼ悲鳴に近い声を上げた。
「そういうわけじゃないけど、他に見るものが無いからねえ」
「…確かに」
うなずき、私は大いに納得する。
「でもね、ONがホームランをいっぱい打ってた頃は、ちょくちょく見ていたんだよ。きっとその時の名残りだねえ。はっはっはっ」
「なあんだ、やっぱり巨人ファンじゃないの」
光子はわざと口をとがらす。
「それにしても、キクばあちゃんの口から、ナイスゲームとかONって言葉を聞くと、なんか違和感があるなあ」
苦笑いで明代姉さんが言った。
「あら明代、キクばあちゃんって、意外に横文字に詳しいのよ。ゲストって言い方を定着させたのも、キクばあちゃんだし」
すかさず克子姉さんがフォローする。しかし、
「まあ、時々言い間違いしたりするから、みんなから横文字が苦手って思われちゃうのも、当然なんだけどねー」
と、今度は明代姉さんをフォローし、苦笑いしながらキクばあちゃんの肩に手を添えた。私たちが揃ってうなずくと、
「はっはっはっはっ」
キクばあちゃんは他人事のように笑った。
「ねえねえ、光子。ところでONってなあに?」
由美が首をかしげた。
「やだ由美、ONっていったら、王と長嶋に決まってるじゃない」
「えっ? ONって、王と長嶋のことなの?」
「本当に知らなかったの?」
「だって、野球なんて全然見ないもの。王と長嶋くらいは知ってるけどさ」
今度は由美が口をとがらせた。
「由美の野球音痴は、そうとうなものね」
「いじわる。光子が詳しすぎるんでしょうに」
「あはは、まあね。私の場合は家に野球バカが一人居るからさあ、情報が耳にタコ状態。知りたくなくっても、つい、覚えちゃうのよ。選手のニックネームやら、背番号やら…」
光子は呆れ顔でため息をつく。
「あ、それ、右に同じ」
と、私が手を挙げると、こらえきれずに、みんなで一斉に吹き出した。
野球の次に、私たちはもう一度見てみたい番組の話題で盛り上がった。『おくさまは18歳』とか『サインはV』とか『ムーミン』とか『キイハンター』とか、それぞれよく見ていた番組名を出し合って、懐かしさに浸った。キクばあちゃんの『ありがとう』と『肝っ玉かあさん』には、全員一致で時間差電波での再放送を願った。次の話題は『東京オリンピック』。フォークソング部三人が「記憶に無い」と言うと、克子姉さんと明代姉さんは「信じられない」と、目を丸くした。当時、この村にはカラーテレビが一台しかなかったらしく、オリンピック放送をカラーで見るために、ツルツル頭の雅一おじさんの家に、大人も子供も集まって日本選手を応援したそうだ。もちろん、記憶に無い私たち三人も、父や母にダッコされて見ていたようだけど、なにせ、一歳と二歳の時の出来事、覚えているわけがない。
「ミュンヘンオリンピックだったら、はっきりと覚えているんけどなあ」
「そうそう、男子バレーの一人時間差攻撃、とかねえ」
由美と光子が懐かしそうに言った。
「つい、この前のことじゃないの」
明代姉さんが大げさに呆れ返ると、隣で、克子姉さんがため息をついた。
「結局、東京オリンピックにしても、ミュンヘンオリンピックにしても、それから…、大阪万博や、今やっている海洋博でさえ、透さんにしてみれば遥か大昔のことなのよねえ」
と、小学生たちの輪に視線を向けた。いつのまに混じったのか、和則がその輪に入って、透さんに何やら話しかけている。ふと、その光景を、ずっと前に見たような気がした。もちろん、私の気のせいであって、そんなことがあるはずがない。しかし、和則や子どもたちに笑顔で答える透さんを見て、彼が、ずっと前からこの村に住んでいるんじゃないかと錯覚するような、不思議な気持ちになった。
「透さーん」
突然、明代姉さんが声を掛けた。透さんはわずかに驚いた様子で、ひょいと顔を上げた。
「透さんは、沖縄海洋博って、知ってますー?」
数秒経って、透さんは小刻みに首を横に振った。明代姉さんはガックリと肩を落とし、克子姉さんと同じようにため息をつくと、キクばあちゃんが声を上げて笑った。
みんな、私と同じ気持ちを抱いてるのかもしれない。克子姉さんと明代姉さんの様子を見て、私はそう思った。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「恐れ入ったよ、明代姉ちゃん」
今まで向こうの輪でしゃべっていた和則がやってきて、ふいに明代姉さんに声をかけた。
「あら、何のことよ」
「チェンジアップ」
「チェンジアップ?」
「透さんに投げた最後のボール。さっき、透さんに教えてもらったんだけどさあ。速く投げるって見せかけて、わざとスローでタイミングをずらすボールを、大リーグでチェンジアップって言うんだってさ。最後にそんな上手いボールで仕留めるなんて、感心するよ。うん」
いかにも偉そうな態度で和則は解説し、納得している。
「あれ、チェンジアップって言うのね。あはは…」
和則の態度に少しカチンときたのか、明代姉さんの笑いが引きつった。
「俺も、明代姉ちゃんを見習って、もう少し投球ホームに変化を付けないといかんなあ」
さらに偉そうな態度で和則は腕を組む。まったく、尊敬の念はちっとも感じられない。
「だったら、頭脳的な投球ができるように、もっと練習してがんばりなさい!」
明代姉さんは、横にしゃがんでいた和則の背中を、ピシャリと叩いた。はずみで不格好によろける和則を見て、私は思わず、
「バーカ」
と、舌を出した。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
やがて、外が明るくなり、雨の音が止んだ。
「よーし、みんな、そろそろ解散しようか」
高井和先生が立ち上がった。今日子先生と佐百合先生が、子どもたちにジュースの缶を片付けるように指示している。私たちも後片付けをしながら立ち上がった。
小学生と男子たちが外に出るのを待って、私たちふくれもちメンバーは最後に玄関に移動した。私が靴を履きかけたとき、数メートル離れたところで、克子姉さんが明代姉さんに耳打ちするのに気がついた。
「本当はヒットを打ってもらいたくて、あのボール、投げたんでしょ」
他のみんなには聞こえなかったようだった。しかし、私の耳にははっきりと届いてしまった。知らないふりをしようとしたけど、どうしても気になった。さりげなく、視線を二人に向けた。この前の由美のように、明代姉さんの顔は真っ赤に染まっていた。慌てた様子で「そんなことないわよー」と否定している。見てはいけないものを見てしまったように感じ、私はすぐに視線をずらした。その時、急に表が騒がしくなった。
「すげーっ!」
祐輔が声を上げた。
「お姉ちゃん、凄いよ!」
れんげが玄関の前に顔を出して、東の空の辺りを指差した。
「…ああ、虹ね」
今日の夕立の後には、必ず虹がかかる。きっと、いつもより少し大きな虹が、山並みをまたいでいるのだろう。そう思って表に出た。しかし、
「わあ…」
その不思議な光景に、私は目を奪われた。後から出て来たふくれもちのメンバーも、一瞬、言葉を失いかけた。いつもと同じ虹の上に、もう一つ、同じ大きさの虹が、位置をずらして浮かんでいた。同心円上に現れる二つの虹は見たことがあるけれど、こんな虹は見た事が無い。
「あり得ない…」
高井和先生が、思わず言葉をこぼした。
「先生、もしかして、あれが時間の残像じゃないですか?」
メガネのフレームを押さえながら、博己先輩が推測すると、
「うーん、まだ何とも言えないが…、そうかもしれん」
と、先生は顎を擦りながら虹を見つめた。私たちも、驚きと感動の声を上げながら、不思議で鮮やかな天空ショーに見とれた。
二つの虹は、それから五分ほど出現し続け、やがて、静かに青空へ溶け込んでいった。虹が消えたあとも、私たちはその場に留まり、しばらくの間、感動の余韻に浸って空を見つめていた。
「不思議な虹だったねえ…」
私の近くで克子姉さんが呟やくと、隣で明代姉さんが静かにうなずいた。何事も無かったように、その顔からは、とうに真っ赤な色は消えていた。
1975年8月16日 16:54