© Karin Sonoyama / Sakoyan 2010
© Karin Sonoyama / Sakoyan 2010
第十話 引っ越ししちゃった?
「じゃあこれ、お願いね」
母は私に、風呂敷に包んだお皿を渡して言った。中から、揚げたての天ぷらの香りが、美味しそうに溢れている。
「はいはい」
「はい、は、一回でいいの」
「はぁ…い。じゃ、出かけてくる…」
気乗りのしない返事でサンダルを履いた。はいはい、は、自分の口癖だってこと、母は気づいていない。ため息をわずかにこぼし、私は玄関を出た。午後の日差しは今日も強い。帽子、かぶって行こうかと、一瞬、立ち止まった。…近くだし、まあいいか。思い直して、再び歩き出す。母の得意料理の天ぷらを、祐輔の家へ届けて、と頼まれた。お礼の差し入れなら、自分で届けるべきでしょうに。
歓迎会で、あれほど楽しませてもらったというのに、母はたった一日で、透さんへの関心度がほぼゼロに戻ってしまった。それでも、自慢のソーセージかき揚げを差し入れるくらいだから、ゲストをもてなす心はまだ消えてはいないんだな、と感心していたら、どうやら違うらしい。透さんのためっていうより、れんげが毎日のように祐輔の家に押し掛けているから、静香おばさんへのお詫びだという。まったく。雅一おじさんがお世話した、格好良いゲストの時には、自ら進んで差し入れを運んでたくせに。それも何度も。…とはいっても、初めてのお世話係で何かと忙しいから、差し入れは助かるって、静香おばさんは電話で母に言っていたらしい。理由は何であれ、ゲストをもてなすことに一役買っていることには、なるか。それに、これは他のおばさんたちも言えることだけど、関心度は元に戻ったとはいえ、透さんを見る目は、歓迎会以前よりも、あきらかに良くなったのは確かだ。
今日もセミたちが時雨れ、人通りの無い道路を賑やかにしている。れんげたち、今頃どうしているだろう。お昼を早めに済ませ、今日も張り切って出かけたれんげは、透さんに二回目の村案内をすると言っていた。場所は聞かなかったけれど、一回目の時、秘密基地作りのために回れなかった所があるらしい。他に行く場所があるとすれば、学校の裏山あたりか。
歩きながら、祐輔の家を見た。アスファルトの熱が、景色を揺らしている。ふと、白いシャツと黒のズボンの、浩輔おじさんの姿を思い出した。陽炎の中に、あるはずの無いまぼろしを探し、過去を辿った。浩輔おじさん、村へ帰った時は、いつも、その格好をしていたっけ。今頃、どうしているだろう…。きっと、もう一つの岩柿村へ、そろそろ帰る支度を始めているんだろうな。
静香おばさんの旦那さん、つまり、祐輔のお父さんは、今は居ない。居ないというのは、お父さんは居るけど、この村には居ない、という意味だ。祐輔のお父さん、松田浩輔おじさんは、遠い町へ出稼ぎに出ている。お盆とお正月休みには、必ず帰省していたけれど、夏休みが繰り返すようになって、この村に帰ってこられなくなった。正確には、本来の時間からコースを外れているのは、私たち岩柿村の住民なのだから、静香おばさんと祐輔が、浩輔おじさんがいる正常な時間に帰ることができない、と言うのが正しい。
祐輔が、悪ガキたちの先頭に立って悪さをするのは、寂しさを紛らわしているからってことは、みんなが知っている。いつだって、村中を元気に走り回っているし、寂しい顔は少しも見せたことがない祐輔だけど、本当は、お父さんに、会いたくてたまらないのだ。だから、悪ガキたちが多少の悪さをしても、村の住民たちは大目に見てあげている。怒る時もあるけれど、本気で怒っている訳ではない。それに、ほとんどは他愛も無いイタズラばかりだから、元ジイなんかは、むしろ、悪さをしかけられるのを喜んでいる。そんな祐輔の悪さが、透さんの失神事件以降、ピタリと止まった。どんなゲストの時も、男の人だろうと、女の人だろうと、構わず悪さをしていたのに。格好良いゲストには、爆竹の時限爆弾を連続で仕掛けていたし、イケイケのお姉さんには、大きなミミズを持って追いかけ回したりしていた。その悪さが、すっかり鳴りを潜めた。やっぱり、失神事件の大騒ぎが効いたのだろう。初めてのお世話係っていうのも、理由の一つなのかもしれない。久しぶりに家が賑やかになったことが、きっと、嬉しくてたまらないのだ。とはいえ、あるはずのものが無かったりすると、なんだか妙に不自然さを感じてしまったりする。
奥野川のコンクリートの橋を通りかかった時、近くで声が聞こえた。
「あ、シーコ姉ちゃん」
祐輔が、花をすでに落としたクチナシの茂みの向こうから、顔を出した。
「ちょうど良かった!」
続けてれんげが立ち上がり、さらに寛太と透さんが顔を出す。透さんは私を見るなり、
「どうも…」
と、軽く会釈した。
「こんにちは。透さん、いつも子どもたちに、付き合ってもらって、すみません」
「いえいえ」
透さんはつばを持って、わずかに野球帽を上げた。つばの影で目元は暗い。けれど、対照的に口元の白い歯が、目立っている。
「ねえねえ、シーコ姉ちゃん!」
れんげが手招きしながら呼んだ。私は、橋の傍から川沿いに続いている小道に降りて、茂みへ近づいた。クチナシの香りが、まだわずかに残っている。
「どうしたの?」
「確か、この辺にいたよね!」
「何が?」
「川エビ」
祐輔が両手でチョキを出して答えた。
「ほら、この前、見たじゃない。大きいのと小さいのと、二匹」
川底に落としている、クチナシの茂みの影を、れんげは指差した。
「うん、確かにいたわね。…川エビが、どうかしたの?」
「透兄ちゃんが見たいって!」
透さんを見上げ、れんげは笑った。
「ごめんなさい。川にエビがいるっていうのが、珍しくって…」
頭の後ろを掻き、透さんは恥ずかしそうに言った。
「そうだったんですか。じゃあ…」
と、私は茂みの影に視線を移し、天ぷらの風呂敷包みを膝の上に乗せ、しゃがんだ。目を凝らす。丸くて平たい石が、ぽっかりと空いているように見える。その周辺にも、川エビの姿は無い。
「この前、確かにここにいたんですけど、どうしちゃったんだろ」
「引っ越ししちゃったのかなぁ…」
れんげが、つまんなそうに私の隣でしゃがんだ。
「しょうがねえや。ここ、あきらめて、次行こう」
透さんのTシャツをひっぱり、祐輔が言った。名残惜しそうに川底を覗いていたれんげは、立ち上がろうとして、風呂敷包みにようやく気がついた。
「あれ? それ、何?」
「静香おばさんに差し入れよ」
すると、いままで一言も発していなかった寛太が、
「てんぷら…」
鼻をひくひくさせて、ぼそっと言い当てた。
「あっ、もしかして、ソーセージかき揚げ?」
中を覗こうと、顔を近づける祐輔。
「こら、だめよっ!」
私は風呂敷の結び目をしっかりと持った。それでも、祐輔は天ぷらの臭いを嗅ぎとったのか、
「ウーン、マンダムゥー」
と、コマーシャルのチャールズ・ブロンソンの真似をして、自分の顎を手で擦った。意味不明な仕草だけど、
「れんげの母ちゃんのソーセージかき揚げ、美味いんだよなあ…マンダムゥ!」
どうやら、よだれが垂れるほど美味そうだっていうのを、表現しているらしい。寛太も祐輔の真似をして、しきりに顎を擦っている。母のことで、唯一、鼻高になるソーセージかき揚げ。私が言うのもなんだが、安っぽい材料なのに、シソやシイタケの天ぷらよりは遥かに美味しい。たびたび作り過ぎては、近所に配っているから、ちょっとした名物になっている。
「晩ご飯の差し入れなんだから、我慢しなさい!」
「ウーン、たまらん、マンダムゥーン」
「バカ。…あ、透さん、これ、母の作った天ぷらなんですけど、静香おばさんが後で食卓に出してくれると思いますから、良かったら、食べて下さいね」
「わあ、それは楽しみだなあ。どうも、ありがとう! わざわざ気を遣っていただいて。お母さんに、くれぐれもよろしく言っておいて下さい」
「い、いえいえ!」
なんか、透さんへの差し入れっていう雰囲気になってしまった。母の本心、れんげが迷惑をかけているお詫び…だなんて、とても言えない。まあ、晩ご飯は三人一緒に食べるだろうから、別に問題あるまい。この際、透さんへの差し入れ、っていうことにしておこう。
橋の上から、振り向いて手を振った。
「じゃあ、気をつけて!」
茂みのずっと向こうを歩いていた悪ガキたちと透さんが、お返しに手を振った。やっぱり、学校の裏山へ行くらしい。祐輔を先頭に、一列に並んで、川沿いの細い小道を上って行く。透さんも、意外に楽しんでいるように見える。この村が気に入ってくれたのかな。だったらいいな。そんなことを思い、私は祐輔の家へ急いだ。強い日差しの元で、せっかくの天ぷらがダメになってしまいそうな気がして、慌てて走った。
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「ご苦労様。椎子ちゃん、ちょっと寄ってって。何か飲み物、ご馳走するから」
静香おばさんは、風呂敷包みを受け取ると、家に私を招き入れた。
「みかんジュースでいい?」
「うん、いただきます!」
台所、久しぶりに上がらせてもらった。そういえば、前に上がらせてもらったのも、天ぷらを持って来た時だった。小六の時、浩輔おじさんからお土産をいただいたお返しに、母に頼まれ、れんげと二人で天ぷらを持って来た。あの時と、ほとんど変わっていない。チェック柄のテーブルクロスが懐かしい。
「あ、静香おばさん、えんどう豆、剥いてたの?」
テーブルの上に、エンドウ豆のサヤを盛ったお皿が置いてあった。
「そう。今日は、豆ご飯にしようと思って」
「わあ、いいなあ」
漂う青い匂いを嗅ぎ、ほかほかの豆ご飯が頭に浮かんだ。やがて、サヤのふくらみを見ているうちに、なんだか私も、無性に剥きたくなってしまった。
「ねえ、私も手伝わせて!」
「構わないけど。いいの?」
「うん、私、子どもの頃、エンドウ豆剥くのが大好きだったの」
中学生になって、我が家で豆ご飯を食べた記憶が無い。前に剥いたのは、もう、ずいぶん前だ。懐かしい。
「ふふ。じゃあ、お願いしようかしら。豆を剥くのって、意外に楽しいのよねえ」
「そうそう!」
みかんジュースをご馳走になった後、静香おばさんと向かい合わせで、豆剥きの作業に取りかかった。あれこれとおしゃべりしながら、ゆっくりと一時間ほどかけて、お茶碗一杯分のエンドウ豆を剥いた。
おしゃべりの大半は、透さんのことだった。籠っていた時の透さんは、謝ってばかりいたそうだ。「すいません」と頭を下げたかと思うと、あとは無言のまま、ずっと落ち込み、それを何度も繰り返していたらしい。ゴロベエ先生に大丈夫だと言われていたものの、さすがに静香おばさん、三日目を過ぎたあたりで、どうなることかと心配で心配でたまらなかったという。
変化があったのは、やはり、ホタルの大群を見た、あの夜から。理由は解らないようだけど、とにかく、祐輔と一緒にホタルを見た時から、人が変わったみたいに、表情が明るくなったそうだ。それでもやっぱり「すいません」というのは口癖のようで、ご飯を食べる時も、お風呂に入る時も、洗濯物を渡す時にも、一言「すいません」と頭を下げるのだという。だけど、暗い表情が消えてくれたおかげで、ようやく安心できたと、静香おばさんはほっとしていた。
それから、透さんにとっては、この時代のものが大変珍しいのだそうだ。何かを見つけては「凄い!」と、感動しているらしい。テレビのチャンネル、トイレの裸電球、振り子の付いた柱時計、祐輔のマンガ雑誌、どれもこれも透さんにとっては新鮮なようで、いちいち感動している様子に、静香おばさんは可笑しくてたまらないらしい。面白かったのはチロルチョコレートの話。祐輔のおやつのチロルチョコレートを見て、透さんは「三倍も大きい!」と大騒ぎしたそうだ。二十一世紀のチロルチョコレートは、同じ値段で三分の一ほどしかないらしい。それから意外だったのは、特にテレビに感動しているっていうこと。未来の電化製品に詳しいから、この時代のテレビには興味が無いと思っていたのに。きっと、レコード好きの私が、今でも雅一おじさんの家に鎮座している蓄音機を、珍しがるようなものなのだろう。とにかく、エンドウ豆を剥きながら、おしゃべりをしている静香おばさんが、ずっと楽しそうだったのは、私も嬉しかった。
帰りがけ、居間の柱に掛けられた白いシャツと黒のズボンを見かけ、なんだか、言葉に表現できないような安堵を感じ、無意識のうちに、私はほっと息をついていた。
1975年8月3日 13:38