短編「ゴブリンの知恵」前編
短編「ゴブリンの知恵」前編
生まれて間もない新米のゴブリンが、山道を歩く人間の前に飛び出した。生まれて間もないといっても、ゴブリンというのは土の中から生れ出る魔物。人間とは違って、時間をかけて成長するわけではない。目の前の人間よりも一回りほど小さな体ではあるが、生まれたときから一人前の姿をしている。世の中には多種多様なゴブリンが生息しているが、大抵のゴブリンは人間を襲って食うような恐ろしい怪物ではない。しかし、そのほとんどは他人の嫌がる悪戯を好むという性格を持っている上に、姿も人食い怪物以上に醜いから、他の魔物たちからも忌み嫌われている。
この地域のゴブリンも例外ではない。人間から見れば、生まれたてだろうが、一人前だろうが、見た目は恐ろしい姿をした魔物であることには違いはないのだ。だから、いきなり薮の中から飛び出した新米ゴブリンを見れば、大抵の人間は人食いの怪物が出たと思って腰が抜けてしまうほど驚く。たとえば、勇者きどりの見た目が屈強そうな男なら、へっぴり腰になりながらも武器になりそうなものを取り出し、いくらか身構える姿勢をとるのかもしれないけれど、新米ゴブリンが出会った人間は、武器など装備していないごく普通の男。軽装の身なりから、登山家でもなければ、木こりや猟師でもないことが解る。おおかた散歩でもしようと山道を歩き、うっかり奥まで入り込んだのだろう。その男は当然、地声の3オクターブくらい高い悲鳴を上げ、持っていた荷物を投げ捨て、矢のように逃げ去った。ところが、新米ゴブリンはというと、地べたにしりもちをつき、逃げ去る男を唖然とした様子で見送っていた。
いくらか経験を積んだゴブリンなら、逃げ去る人間をすぐさま追いかけ、悪戯を執拗に仕掛けるものだが、実は新米ゴブリンは、悪戯を仕掛けようとして男の前に姿を現したわけではなかった。腹を空かし、昆虫やら小動物やら、とにかく口にできそうな獲物はいないかと、薮の中を夢中で探しまわっていて、弾みで道に飛び出したのだ。
姿形は一人前でも、生まれつき知恵まで備わっているわけではない。ゴブリンとて他の生き物同様、経験を積みながら知恵を付けていく。ただ、他と決定的に違うのは、ゴブリンが身に付けるのはもっぱら悪知恵のほうであり、経験を積めば積むほど性格が悪くなっていくのだ。
とにかく、生まれてからまだ日が浅い新米ゴブリンは、悪戯を仕掛けるほど、まだそこまでは性格がねじ曲がってはいない。それに、行動範囲だって広大な森の中のごく一部。人里には降りたこともなければ、この山に棲む他のゴブリン族と、口に運ぶ小動物以外の生き物はまだ見たことがない。ましてや自分より背丈の大きい人間に突然出会ったのだから…。そんなわけで、腰を抜かすほど驚いたのは、実は新米ゴブリンのほうだったのだ。
さて、その様子を、たまたま少しばかり離れたところから見ていた、いくらか経験を積んだ古株のゴブリンがいた。古株のゴブリンは、しりもちをついたままその場で固まっている新米ゴブリンの側に行くと、あざけるように腹を抱えて笑った。
ようやく我に返った新米ゴブリンは、多少ムッとして立ち上がろうとした。すると、足元に転がっていた荷物に気がついた。
「待て、お前は触らないほうがいい」
首を傾げながら拾い上げようとする新米ゴブリンを制止し、代わりに古株のゴブリンが拾い上げた。薄汚れてはいるが、肩掛け用の紐が付いた、丈夫そうな革の小さなバッグだった。古株のゴブリンは、いぶかしそうにバッグの中をのぞきながら、
「お前、人間を見たのは初めてのようだな。せっかくの楽しみだったのに残念だったな」
と、新米ゴブリンに嫌みを言った。
「人間…さっきの生き物は人間というのか?」
「ああ、俺たちより図体がでかいくせに、臆病なやつらときている。だから、からかうには最高の標的ってわけだ」
「からかい損ねたから残念だったってことか…」
新米ゴブリンはようやく立ち上がり、唇を噛み締めながら顔をしかめた。からかい損ねて残念だったからではない。嫌みを言われて少し腹が立ったのだ。
ゴブリンというのは、相手の嫌がることだったら、嫌みも大嘘も平気で口に出す。同種族だって容赦しない。自分さえよければ他のやつらはどうだっていい。そういう魔物だから、そのかわり自分が嫌みを言われたら、無性に腹が立つ。経験を積んだゴブリンだったら、烈火の如くキレまくり、嫌みを倍にして言い返すところだが、新米ゴブリンは、まだまだそこまでの域には達していない。本能的に腹が立ったものの、言い返えすほどの経験を積んでいない。古株のゴブリンもそのことを解って嫌みを浴びせているのだ。
「それは何だ?」
多少むくれ顔の新米ゴブリンは、バッグの中をまさぐっている古株のゴブリンに聞いた。古株のゴブリンは、中に入っていた虫眼鏡やピンセットや手帳を取り出しては、さも詳しいようなそぶりで品定めをして、それらをまたバッグの中に戻すと、
「人間の使う道具だ。しかし…どれも役に立つような代物ではない」
と、首を横に振りながら答えた。
「人間の道具というものは、そんなものなのか」
「ああ、そんなものだ。だが、お前のような新米が持つと、人間の毒素が染み付いて、体に悪い。これは俺が預かっておこう」
古株のゴブリンは、いかにも当たり前のように、まったくのデタラメを言った。そして、毒素なんて回る訳が無い…と、腹の底で笑った。
ゴブリンというのは、他人の物は何でも欲しがる。はなっからこのバッグが目当てだった。男がバックを放り出したのを目撃した時から、実は狙っていたのだ。だから、落とし物の第一発見者である新米ゴブリンに、後で返すつもりなど、毛頭ない。
「ん…?」
古株のゴブリンは、バックの底から包まった古布を取り出すと、顔をしかめ、ゴミだと思って脇の薮に捨てようとした。しかし、物欲しそうにバッグを見ている新米ゴブリンに気がつくと、
「これくらいは大丈夫だろう。とっておけ」
と、それを新米ゴブリンの前に放り投げた。もちろん憐れみの気持ちで与えたわけではない。ゴブリンには慈愛の心が微塵も無い。お前のようなやつにはボロがお似合いだと、相手を見下しているのだ。
新米ゴブリンはまた少し腹が立ったが、生まれたてにありがちの、強い好奇心によって怒りをかき消され、思わず古布に飛びついた。
古布じたいは新米ゴブリンの好奇心を満たすほどの物ではなかったが、中からしみ出ているほんのわずかな香ばしい匂いを嗅ぎ取ったことが、彼にとっては幸運だった。何か良い物に違いない。そう感じた新米ゴブリンは心が躍った。包みをほどくと、中には真新しい紙の包みがあった。さらにその包みをほどくと、期待通り、香ばしい匂いがたちまち溢れ出し、中から二枚のクッキーが現れた。新米ゴブリンは、小刻みにひくつかせている鼻先にそれを近づけると、本能的に食べ物であることを理解した。
小心者で警戒心が強いゴブリン族ではあるが、彼らの胃袋ときたらめっぽう丈夫で、食い物に関してはどんな魔物よりもどん欲で卑しい。だから、人間や動物たちが食べるものはもちろん、食料になりそうなものは何でもすぐに口にする。
山の中で生活しているゴブリンたちは、昆虫やトカゲ、野ネズミなんかを捕まえてそのまま食っているし、めぼしい食い物が見当たらないと、毒キノコや腐った木の実まで口にする。こんなやつらが人食いでなかったのは、人間たちにとっては幸いなことである。
さて、新米ゴブリンがクッキーの匂いを嗅いでいた時、すでに背を向けてその場を去ろうとしていた古株のゴブリンは、やっとクッキーの匂いに気がついて振り向いた。古布を手に取り、珍しそうに眺めている新米の、浅ましい姿を想像していた古株のゴブリンは、予想外の展開で面食らってしまった。それが瞬時に食い物だと解る物を、新米ゴブリンが、今まさに口の中に押し込もうとしていたからだ。
「あっ、俺にもよこせ!!」
慌てて手を伸ばしたがわずかに遅かった。新米ゴブリンは二枚重ねたクッキーを口の中に放り込み、一噛みしただけで一気に飲み込むと、憎たらしいほどの恍惚の表情を浮かべた。
「お、お前、何を食ったんだ?」
「解らない。あんたがくれたものの中にあった。きっと人間の食い物だろう」
「古布の中にあったのか?」
「あった。おかげで美味いものを食わせてもらったよ」
「そんなに美味いものだったのか?」
「今まで、こんなに美味いものは食ったことが無い」
「そ、そうか…、それは良かったな…」
古株のゴブリンは平静さを装おうとしたが、
「だが、人間の食い物を食うと、毒素が回るぞ」
と顔を歪めた。自分を差し置いて、美味しい思いをした新米のいまいましい表情を見ているうちに、自分自身にあたかも毒素が回ったかのように、嫉妬が体中を占領してしまった。しかし、新米ゴブリンは、クッキーの後味の良さに、さらにうっとりとしてみせた。
「こんな美味いものを食えるんだったら、少しは毒素が回ったっていいくらいだ。ああ…もっと食いたい」
新米ゴブリンは素直な感想を言ったつもりだったが、古株のゴブリンには、最大級の嫌みに聞こえてしまった。「この生意気な新米め、どうしてくれようか」そんな思いが次第に大きくなって、たちまち怒りに変わった。すると古株のゴブリンに、ある企みが閃いた。
後編へつづく…
突出しエッセイ